仏教を「思想」で翻訳するということ

 私の話は仏法の話ではなく「哲学の話」ではないかと疑問を持たれる方が多い。どうしても、仏教用語だけでなく、現代思想の用語を使って表現することが多いからだ。そもそも、仏教も思想も、共に扱っている対象は同じ「人間」なのだ。だが同じものを扱っていながら、それぞれの用語が違うことによって、違うものを扱っているように錯覚されている。そうではない。扱っている対象は同じなのだ。
 ただ仏教用語は、専門用語であり、それを学んだひとだけには通じるが、学んでいないひとには通じないという現象が起こる。それは専門が深化すれば仕方のないことだろう。基礎医学の用語や法律用語などは、その典型だろう。しかし、思想(哲学)と仏教は、日常的な「人間存在」そのものを扱っているのだから、専門用語を学んでいないひとにも通じるものでなければならない。それで私は、仏教用語を何とか現代思想用語で翻訳できないかと試みてきた。大げさに言えば、現代思想用語で表現することによって、専門用語で成り立ってきた仏教を人類に公開できるのではないかと考えている。専門用語だけで表現してきた仏教を現代思想用語によって翻訳することで、仏教そのものが息を吹き返すのではないかとも思っている。
 そうは言うものの、単に仏教用語を現代用語に置き直せばよいというものではない。やはり、それなりに仏教の真髄にまで足を下ろしていなければならない。表層の言語体系を表層の言語体系に移すのではなく、一度、人類の深層に降り立ち、そこから再び浮上して思想用語に定着させる必要がある。それには、仏教も思想も、深層のところでは通底しているという確信がなければならない。
 そんなことを考えてもやもやしていたら、安田理深先生も、その問題を考えられていたことを知り嬉しくなった。それが次の文章である。
「南無阿弥陀仏と訳している限り分からぬのであろう。むしろ思想で訳さねばならぬことを思う。これが南無阿弥陀仏だったか、ということにならねばならぬことである。言葉だけ訳しても分からぬ(略)しかし、そこに思想で訳すとき、「そうか」とうなずくことができる。しかもその「そうか」となるということが不思議なところである。仏教はこれまで異邦人に触れなかったことであるが、それが異邦人にも分かるということは、その底に法があるからであろう。我らが南無阿弥陀仏を伝える先に、彼らも既に南無阿弥陀仏の中におればこそ、分かるのである。(略)キリスト教をすてて仏教に帰依せよということは、いらないのではないか。彼らは彼らのままでよし、イエスを信じていても、そのままうなずかしめるということではないかと思うのである。(略)法というものは、人類のすべて、人間の根底をなすものである。人間の成立するところには、必ず法があるのである。それを明らかにすることこそ肝要である。」(『安田理深選集 第9巻p250)
ここに語られていることが、私の言いたかったことでもある。冒頭の「南無阿弥陀仏と訳している限り分からぬ」ということは、仏教用語を仏教用語で翻訳することの問題を指摘しているのだ。仏教用語を思想用語で翻訳するとき、仏教を知らないひとでも、「そうか、このことを仏教が言っていたのか」と膝を打つことが起こる。なぜ膝を打つのかと言えば、人間は、元々誰しもが、法の中に生きているからである。クリスチャンはクリスチャンをやめる必要はない。やめずして、頷くということが起こる。それが法の普遍性を証明している。
 逆に言えば、イエスの言葉も人類の深層の足を下ろしている場合、「宗教」や「宗派」を超えて「そうか」と納得させるものがある。例えば、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ書4ー27)だ。悪魔から、神の子なら、石をパンに変えてみろと言われたときの応えだ。つまり、人間は「食うこと」も大事だが、それだけで生きられるものではないとイエスは言っている。確かに、人間は食べなければ生きられない。しかし、「何のために食べるのか」という意味がなければ生きることは空しい。つまり、人間は「生きる意味」を求める存在だとイエスは言いたいのだ。この表現は人類の深層に足を下ろしている。だから、キリスト教を知らない者でも、「そうか」と納得できる。
 イエスも仏教も思想も、共に扱っているものは、「人間」そのものだ。この人間の深層に足を下ろしたところから紡ぎ出された言葉だけが歴史に残っていくものなのだろう。