法話は〈一人一世界〉限定の独白

 改めて、〈一人一世界〉なんだと知らされた。私は、法話で「悲しみは貪欲の悲鳴だ」と喋っている。連れ合いが、焼き場で焼かれ、お釜から白骨となって出てきたのを見て、「これは彼女の抜け殻であり、滓だと感じた」とも話している。
 しかし、これは私の〈一人一世界〉の話であって、これを他者に強要するわけにはいかない。今日もお連れ合いを若くして亡くされた方の三回忌だったが、同じようにお話しした。お話をしてはいても、これは私と阿弥陀さんとの絶対関係の中で感じ取った話であって、これを施主さんに強要するわけにはいかない。この施主さん、つまり旦那は、まだお連れ合いのお骨を大事に手元に置かれている。
 法話というものは、とことん自分と阿弥陀さんとの絶対関係での出来事であり、周りの人に強要できるものでは、決してない。お子さんを亡くされたお母さんに、あなたが泣いているのは、「貪欲」が泣かせているのだから、泣くのをやめなさいとは強要できない。それはあなたの思いの中の「思い出としてお子さん」に対して悲しんでいるだけで、そこに「本当のお子さん」がいるわけではないと、説得することもできない。まして、最も大事な「お子さん」を失って泣いているのは、あなたのエゴイズムだとも言えない。お子さんが亡くなるまでの苦しみ、亡くなった時の痛みや苦しみを想像すればするほど、悲しみ歎きに沈むしかない。
 いかにその子が苦しみを感じていたとしても、それを親が代わって感じることもできない。ただただ、亡くなったときの痛み苦しみを、「さぞや」と想像する以外にはできない。しかし、そう歎き苦しんだとしても、それは「後の祭り」だとも分かっている。過去の時間を巻き戻すこともできない。
 亡くなっていったご当人は痛み苦しまれたけれど、それを傍で見ていて何も出来なかった身内も違った苦しみを抱える。ただ、身内も、二十四時間、四六時中、悲しみの感情に浸っていることはできない。先立たれた者は、まだこの世を生きていかねばならないからだ。先立ったひとは二度と御飯を食べないが、先立たれた者は、毎日、寿命が尽きるまで御飯を食べ続けなければならない。ときには、日常生活の中で、思わず笑いが込み上げてくるシーンもあるだろう。そんなとき、ハッと我に返って、「もうあの子はいないのか」と寂しさに襲われるときもある。ヘラヘラと笑っている自分が疎ましく感じられてしまうときもある。
 そして、もう先立たれた人と出会う場面は、「思い出」の中でしかなくなる。私も、「思い出」しかないのだと思った。でも、それが「本当の彼女」なのだろうかとも感じた。そして「本当の彼女」はどこへ往ったのだろうかと問うた。
 そこから、彼女は「苦しみと喜びと安らぎという世界」を超越した世界へ還っていったのだと感じた。つまり、一言で言えば、人間の私には思いも及ばない世界へである。人間が考えられるあの世は、人間が感じ得ることのできる世界以外にはない。人間の知力の限界を尽くして、あの世を見い出したとしても、それはやはり所詮、「人間的なあの世」なのだ、と見切った。
 人間の知力では、彼女がどこへ往ったのかを突き止めることはできない。そう分かったとき、「本当の彼女」を手放すことができた。そして、悲しみの感情に取り憑かれることがなくなった。往った先が分からないということが、不安から安心感へと変わっていった。
 緩和ケア病棟で、彼女は「先に往ってるね」と言ったので、私は「後から行くね」と応えた。「少し待っててね」と付け加えて。思えば、そこへ往かないひとは誰一人としていないのだから安心だ。人間には「分からない世界」だから安心なのだ。そこへ往くまでの時間つぶしを丁寧にしていこう。
 人間は、どこまで行っても〈一人一世界〉以外を生きられない。必然的に、法話は〈一人一世界〉限定の独白なのだ。そこに「他者」は存在していないのだ。