親鸞も、「信ずる」という言葉を、無頓着には使っていなかった。「信ずる」と書いてしまえば、言葉の約束として、「何を信ずるのか」、「誰が信ずるのか」という問いが生まれてしまうからだ。
この言葉の約束事から要請されてきた問いに対して、いちいち言い訳がましく説明しなければならない。これは煩わしいことだったろう。煩わしいけれども、答えなければならないので、「何を」には、「本願を」、そして「誰が」には「衆生が」と説明せざるを得なかった。
そんな説明を書きながら、本当は、そんなことを言いたいわけではないのだがなあと内心では思っていたに違いない。
親鸞の「信」の使い方として、親鸞自身が一番シックリくる使い方は、「信ずべし」だった。まあこれも言葉にした途端に、言葉の約束事が発生してしまう。つまり、「信ずべし」とは「誰の命令なのか」という問いが生まれて、さらに「命令されるのは誰なのか」という問いが必然する。
それで親鸞は仕方なく、「阿弥陀如来の命令」であり、命令されるのは「衆生」だと説明しなければならなかった。こう説明しながら、本当は、そんな説明をしたいわけではないのだがなあと思いながら、苦し紛れで、そう説明する。
なぜならば、そう説明してしまうと、「信ずべし」が躍動するダイナミズムが搔き消されてしまうからだ。
「信ずべし」は、衆生、つまり人間が、「ほんの少しでも信ずる必要がない」という意味であり、「決して信ずることなどできない」という表白なのだ。
「信」という言葉が人間界に与えられている以上、「信」は人間がもてあそぶことのできる道具(言葉)となってしまった。だから、いくらでも人間は「信」の意味を考えることができる。でも、そうやって考えられた以上、それは親鸞の言おうとする「信」ではなくなる。
「信ずべし」とは、その命令を受けて「信じられるようになれ」という意味では、まったくない。阿弥陀さんは、もともと人間に何も要求していない。いくら人間に要求しても、決して人間には応えられないということを見越しておられる。だから、念仏を称えることも、そして信ずる必要もないと言われる。阿弥陀さんは「無条件の救い」を訴えている。
ただ人間は、「無条件」など聞いたことも見たこともないので、それを「条件付き」だと邪推してしまう。邪推して、「信ずるための努力」を励もうとする。しかし、「努力」をしようとした途端に、「信ずべし」という命令が聞こえる地点(存在の零度)からズレてしまう。だから親鸞は口がすっぱくなるほどに、「信ずべし」と叫ぶのだ。
自分を信ずるな、自分の「思い」を信ずるな、自分の努力を信ずるなと。
「自分が」という「思い」すら、「自分」から起こるものではなかったのだ。いつでも、どこでも、それは「向こうから」湧き上がってくるものだ。そしていつでも、「自分が」という思いを突き崩してくる。
「信ずべし」とは、お前はお前ではないぞ、と迫ってくるはたらきだ。「自分が」と凝固する思いを手放せと。「まかせよ」という強烈な命令だ。手放すことのできない「自分」という「思い」を、つねに手放せとはたらき続ける作用だ。
手放せば、この世界はいつでも、どこでも、そこが「法界」となる。この世には、一つも「済んだ」ということがない。決して、「済んではいない」。そんな新鮮で純粋な世界が立ち現れてくる。
宇宙開闢以前と宇宙消滅以後の新鮮な時空だ。