わが身は智慧あさくして

いつも、お朝事で、この和讃をあげるとき、これが〈真・宗〉の問答の基本形だと、うっとりする。それはまず、「世俗の君子光臨し 勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある」という問いだ。国王が曇鸞さんに向かって、そもそもあらゆる方向にあるのが仏国土であって、なぜそれを西方にこだわるのか?と。それは偏った考えではないかというのだ。それに対して、「鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と答えている。曇鸞さんは、私はまだ智慧が浅く、菩薩の位である歓喜地にも入っていないので、念力も十方にまでは届かないのでよく分かりませんと言う。この答えに国王は納得したのだろうか。ここには国王の問いの意味空間と、曇鸞さんの答えの意味空間と、二つが乖離していることを表している。国王の意味空間は、経典の説を鵜呑みにしている。経典には仏国は普遍的なものだから、あらゆるところに遍満していると描かれている。このほうが本当らしいし、この考え方のほうが、まっとうに見える。西方浄土に限定することのほうが偏っていると思える。これが国王の意味空間だ。
 しかし、曇鸞さんは、それは一般論であって、「自分においてはどうなんだ」という問いが抜けていると思っている。歎異抄にその問題を引きつけて言えば、第9条の「久遠劫よりいままで苦悩せる旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからず」だ。十方仏国が浄土とは言っても、そんな浄土に往きたいとは思ったためしがないという意味だ。やはり、いくら苦しみがあろうとも、この娑婆が恋しくてしかたないではないかと述べている。ここに「自分においては」という問題領域を「西」という言葉で暗示している。だから、曇鸞さんは、「仏国」などどこにあるのか分からんよと言っているのだ。「西」だから、自分は「西」を知っているというわけではない。どこにあろうとも、そこがすべて阿弥陀さんの世界なら、どの方角でもいいじゃないかというのだ。だって人間が知ることのできない超越した世界なのだから。この「わが身は智慧あさくして」という言葉が、「南無」の基本姿勢だろう。