今朝は、驚いた。美輪が夢に出てきたのだ。本当にびっくりした。白いウールのカーディガンを着ていた。
向こうから、敷き布団を担いで、玄関まで運んでいる。一枚目を運び終えたら、二枚目も運んでいる。多分、布団をクリーニングに出すために運んでいるのだろうと思った。それが、あまりに見慣れた日常の風景なので、私は何とも思わずに、その光景を見送っている。
しかし、フッと我に返った。いやいや、美輪は「死んだ」のだから、ここにはいないはずだ。私は思わず、「お前、死んだんじゃなかったの?」と聞き返そうとしたのだが、聞き返そうとはしなかった。聞き返そうとする思いを制止するものがはたらいた。
あまりに日常的で、ごく当たり前の風景、そしてごくありふれた美輪の振るまいが、それを制止したのだと思う。それでも、やはり、彼女はどこかは分からないが、向こうの世界から現れてきたのだとは内心で思っていた。
玄関には娘が居て、何かをやっていた。私は、彼女が消えてしまうのではないかと、彼女を捕まえておいて、娘を呼び、こちらを振り向くように声を掛けた。すると、美輪を見た娘は、私と同じように驚いた。でも、私と同じように、「ママ、亡くなったんじゃないの?」とは声を掛けられなかった。やはり、美輪の存在感を疑うことができないほどにリアルな彼女がそこにあったからだろう。娘は美輪の姿を見て、さすがに驚いていた。
私は相変わらず、彼女の腕を持ったままで、あちこち移動した。おそらく、またあっという間に消えてしまうだろうと、どこかで疑っていたからだ。しかし、美輪は、「何で私の腕を掴んでるの?」と不思議がっていた。それもそうだろう。ごくありふれた日常生活の中で、どこへ行くにも女房の腕を掴んで離さないなどということはあり得ないからだ。
彼女は、玄関からリビングへ移動するというので、腕を掴んだまま、私も一緒に移動した。それで、何をしているのか?と問うてみた。するとやはり敷き布団をクリーニングに出すために運んでいるのだと、言っていた。
私は、また消えてしまうまでに、いろいろなことを聞き出そうと思いついた。このチャンスを逃すものかと思った。それで、前々から紛失していた法人の通帳がどこにあるのかを聞き出そうとした。寺の経理はすべて美輪がやっていたので、私には皆目、分からないことだったから。彼女が亡くなった後に調べたのだが、通帳が見つからなかったのだ。私が探しても、また娘が探しても分からなかった。
それで娘に向かって、このチャンスに、通帳をどこに置いたか聞いてみようと話した。娘も、それはいいアイデアという顔をした。それで美輪に聞いてみた。すると、美輪は経理をやっていた部屋へ行き、そこの棚を見て、この辺に置いたはずだけどと言う。彼女も、一年以上、この部屋を訪れていないから、記憶が曖昧なのも無理のない話だと思った。
彼女が緩和ケア病棟に入院していたとき、通帳の在処を尋ねたことがあった。しかし、彼女は記憶が曖昧で分からないと言っていた。健康体ならば、病院から自宅への移動は何と言うこともないが、もはや、それも適わない状態だった。
それで私は、次のアイデアを提案した。このアイデアを思いついたことを、我ながら誇らしく思った。それはスマホのビデオ通話をリアルタイムで映し続け、それを病室から見れば、どこに通帳を置いたか分かるんじゃないかと思った。このアイデアを彼女に話したが、これは直ぐに断念させられた。彼女は、そんなものを見ても、実際に自分がそこへ行かなければ分からないと言ったからだ。それで万策尽きて諦めるより仕方なかった。
ともかく、彼女が「ここではないか」と指示した棚を調べることにした。ところが、調べている段階で夢が覚めてしまった。結局、このアイデアも功を奏さなかった。夢から覚めた眼にはうっすらと涙が溜まっていた。
あまりにリアルな夢だったので、まだ白いカーディガンの腕を掴んでいる感触が指に残っているように感じた。フワフワとしていて、それでいてその腕の肉は間違いなく彼女の腕の感触だった。顔も、そのままの美輪だった。
これは「現実」ではないのだが、夢で会ったということだけは「現実」だった。でも夢でも会えたことは嬉しいことだ。城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』という題名が、しっくりとやって来た。
でも、「居ない」ことのほうが、「居る」こと以上に、存在の本来性なんだろう。彼女は「たかだか」66年しかこの世に「居なかった」けれども、生まれる前には「居なかった」のだ。そしてこの世を去ってから、これからずっと「居ない」のだ。そうすると「居た」時間以上に、「居なかった」時間のほうが圧倒的に長いことに驚く。
そうか人間の本来性は、「居ない」時間なんだ。これが当たり前の時間であって、「居る」という時間のほうが「夢幻」の仮りのことだったのだ。それを逆に考えてしまっていた。これは間違いだった。「居ない」が本当であり、本来性だ。むしろ、「居る」が仮りのことなのだ。ああ、これを逆に考えてしまっていた。
こう思うと、やはり、「居る」は奇跡なんだ。でも人間は、何でも「当たり前」にしてしまう。事実は「奇跡」の中を生きているのに、それが「奇跡」だなどとは思っていない。でも、薄々は感じているから、「無上息災」などと祈ってしまう。
時々刻々、「奇跡」に直面しているのだと気づけば、驚嘆と感激の嵐に包まれてしまうだろう。もしそんなことが時々刻々に起こったら、「日常」は進んでいかない。だから、「日常」を進めるためには、「奇跡」を排除して、「当たり前」を溢れさせなければならない。「日常」とは、「当たり前」の上に成り立つヴァーチャルだ。
漁師は「板こ一枚下は地獄」と言うそうだ。万が一、船が転覆すれば、生死を分けるからだ。こんな感覚は「都市生活者」にはない。「都市」は、人間の「知」が生み出した「幻想空間」だから、「当たり前」で充満している。時間通りに、つまり、人間の「知」が決めたとおりに電車が動き、時間通りにテレビのニュースが流れる。蛇口をひねれば水が流れ、レンジでチンとすれば御飯が食べられる。これら全体が、人間の「知」から生み出されたものだ。それは「知」が決めた通り、つまり「当たり前」を欲望する知が生み出した「幻想」世界である。
いつも、この「当たり前」が破られることでしか、人間は「奇跡」と出会えないのだろう。悲しいことに。「当たり前」が「幻想」だと知りつつ、「幻想」を「幻想」のままに生きる。これぞ、〈真実〉の裏面の醍醐味だろう。「幻想」の裏面には、必ず〈真実〉が張り付いている。