いま、NHKの朝ドラ「ひまわり」が再放送されている。これは1996年4月に放映されていたものだ。つまり、いまから三十年も前のドラマだ。だから、携帯電話はドラマに出てこない。出先で電話をするときには、緑色の公衆電話を使っていた。
これは松嶋菜々子が主演で、彼女が女性弁護士として誕生する物語だ。彼女の師匠的存在が、岡田瑛二が演じる先輩弁護士・赤松元基だ。もうドラマも中盤に差し掛かっている。
一昨日見た場面が印象的だった。
赤松が十年以上関わってきた「殺人事件」の判決公判が言い渡された。ほぼ有罪と決まっていた事件から無罪を勝ち取り、赤松たちが祝杯を挙げている。そこに被疑者の青年が登場する。
「先生、おれ、本当はやったんだ。殺したんだ」と告白する。赤松たちは、愕然とする。いままで、無罪を信じ、そのために弁護をし続けてきて、ようやく無罪を勝ち取ったのに。青年は続ける。「何で無罪になんかしたんだよ!無罪でなければ、罪が償えたのに。無罪になったら、俺は一生、自分に嘘をついて生きていかなきゃならないじゃないか!」と食ってかかる。
赤松たち弁護士は、彼が当初、「自分はやってない、無罪だ」という青年の言葉を信じて戦ってきたのに、彼が一転、このような告白をするとは、まさに青天の霹靂ではないか。
青年が「これからどうすりゃいいんだよ!」と赤松に迫る。そのとき赤松は、二つの道があると呈示する。一つは、自分がやりましたと検事に話して公判をやり直してもらう。二つは、自分がやったことをひた隠しにして、一生、自分に嘘をついて生きていくかだ。 まあ、原作者は、さすがに二つ目の方法には賛同せず、一つ目の方法を選んでストーリーは展開した。
そのとき、もし私が赤松だったらと、頭をよぎった。もし私が赤松だったら、「仏門に出家しろ、そして自分自身の罪と一生向き合って生きろ」と言ったかも知れない。でも、この方法は原作者のお好みではないだろうなとは想像した。
また、もう一つのことも頭をよぎった。それは自分が被疑者の青年だったらどうだろうかと。もし自分が実際に犯罪を犯し、それでも判決は無罪判決だったら。まあ、これは「もし」ということで想像することはできないのだが、それを無視して考えれば、まず、赤松弁護士たちに、「なぜ無罪にしたんだ!」と言って食ってかかることはないだろうと思った。むしろ黙って自宅へ帰り、そのまま静かに暮らしただろうと思う。まして、真実を話して再審を要求するなどはしないと思った。つまり、赤松の示した二つ目の方法に沿った形にしたと思う。
これは想像だが、実際の判例で、この青年のようなケースの場合、被疑者は、再審要求をしていないのではないかとも思った。罪を隠して人生を生きるという方法を取っているのではなかろうか。これも想像の域を出ないが。
涅槃経の阿闍世王は、実際に父親を殺したわけではないが、部下に命じて餓死させた罪を悔いている。どれほど、他者から、「それは仕方なかったのだと慰められても」後悔は消えなかった。心身症になるほどに後悔した。いわば、無罪判決をもらった青年と同じ立場だ。実際に殺人をしたのに、それは仕方のないことだ「無罪」だと正当化された。この罪の正当化への忌避感で苦しんでいた。
話はまったく異質なのだが、イエスならばどう答えただろうか。これは「姦淫の女とイエス」という「ヨハネによる福音書」にある話だ。姦淫を犯した場合、ユダヤの法律では石打の刑に処せられる。これは一説によると、半身を地面に埋められ、衆人から石を上半身に投げつけられ、絶命するまで続けられる刑らしい。
イエスは、姦淫を犯した女に石を投げようとする民衆に向かって、こう言う。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と。これにはマタイ書が前提にある。マタイ書には、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」(5ー27)だ。
ヨハネに戻ると、こう言われた民衆は、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。」と。「年長者」とは、いままでにたくさんの罪を犯してきたと自覚しているひとのことだ。そして最後にイエスは、こう言う。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない。」と。
姦淫と殺人を同じように考えるのは間違っているかも知れない。しかし、親鸞の言う「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13条)という視点から見れば同質の罪だろう。
まあ、刑法と宗教の決定的な違いは、それが「実行」されたかどうかだ。つまり、刑法が裁けるのは、「身業の罪と口業の罪」までだ。ところが宗教は、意業の罪までを「身業と口業」と同質の罪と考える。
姦淫を犯した女は、イエスに許された後、どのようになったのかは記されていないので分からない。おそらく姦淫ということは、実際に夫婦関係にあった夫があったことだろう。その男性とどのような結婚生活を続けたのだろうか。やはり、この女は、一生、姦淫という罪を背負って生きていったのではなかろうか。
阿闍世の場合は、その後、「慚愧」から「懺悔」へと罪の意識が深化していく。「慚愧」とは、「罪を犯した自分」と「罪」とが分裂した状態である。分裂しているから、「罪」から脱し、罪を帳消しにしようとする。その状態を「慚愧」と言う。そこから、もう一段深化したのが「懺悔」だ。これは「罪を犯した自分」と「罪」とが一体化することだ。一体化するとは、「『さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべ』き自己」となったということだ。
言わば、「罪の発生装置」そのものと化したということだ。曇鸞は、それを分析し、犯罪(五逆罪)は現象であって、それを引き起こしてくる罪こそが「謗法罪」だと見る。これは「意業の罪」だ。この「意業の罪」が発生源となって、犯罪(身業の罪と口業の罪)とが現れると分析した。この「謗法罪」とは、言わば、「阿弥陀さん不要論」だ。つまり、「我癡・我見・我慢・我愛」の「我」を信頼する生き方だ。まず「自分」というものが有ると発想するところから引き起こされる罪だ。「自分」が有ると思っているという、ただそれだけのことが、この世で最も重たい罪とされるのだ。
ここまで見てくると、「罪」のない人間は、この世に存在しない。なぜなら、ひとは皆な、自分は自分だと「思っている」からだ。阿弥陀さんなどいなくても、自分の生活には何ら差し障りがないと思っているからだ。まさか、これが「罪」だと言われても、ポカンとしてしまう。
まあ、それはそれでよいのだ。だって、これが「罪」だと見ているのは、人間ではなく、阿弥陀さんなんだから。人間にとっては、何ら「罪」とは思うこともできないほどの「重罪」だと阿弥陀さんだけが叫んでおられるのだから。