〈真実〉はそれを受け止めたこころの中にしか成り立たない

 お話をしたり、ものを書いたりするとき、躊躇いが起こる。これが本当に正しい表現なのだろうか、間違ってはいないだろうか、と。しかし、こんなことを考えるのも煩悩のなせる業だろう。
 そもそも、〈真実〉は「言語」で表現できるものではないのだから。それは重々分かってはいるのだけれども、決して表現することはできないと思ってはいても、ついつい表現したくなる。これは尽きることのない欲望だ。
 そうだからと言って、〈真実〉が無いわけではない。その〈真実〉はどこにあるのか。それはその表現を受け止めた人間のこころの中である。
「言葉」は記号だから、耳で聞き、目で見ることができる。しかし、その「言葉」の「意味」は目で見ることができない。
〈真実〉とは、その「言葉」を目にしたり、聞いたりした人間の内面でしかはたらかない。だから、〈真実〉とは、眼には見えない「意味」としてのみ成り立つのだ。
 ここまで書いてきて、ようやく、ものを書いたり、お話をしたりすることに自由を感じた。何を書いても、〈真実〉は表現できないのだから、自由に表現していけばよいのだ。表現できないから、表現をやめるのではない。表現できないから、どこまでも自由に表現していくのだ。
 どこまで表現しても「言葉」となったところには、〈真実〉はないのだから、安心して表現していけばよいのだ。〈真実〉を表現したいという願望に促されて、決して表現することのできない〈真実〉を表現し続けよう。