いま、ここが「浄土」だ、と改めて感じた。どこかに、あるいは、いつか往くところではない。いま、ここが「浄土」でなくて、どこにあるというのか。
そもそも「真如法性」の世界が「浄土」であるならば、「浄土」という言葉すら必要がないはずだ。「浄土」という言葉が機能を果たす場所は、いま、ここ以外にない。
いまここが「浄土」だなどとは受け入れがたいと思われるひとは、「浄土」を「清く美しく安らかな場所」という固定観念で受け止めているからだ。そんな「美しい場所」に比べて、いまここが余りに「汚く醜く不安な場所」だと思っているに過ぎない。そのひとは、「比べる」という煩悩に騙されて、ここが「浄土」だという観念を受け入れられないでいる。
あるいは「浄土」が、この世を去って往く場所だという固定観念を持っているひとにも、受け入れられないだろう。「この世」と「あの世」というものを比べて、「あの世」があると思い込んでいる。そして、ひとは娑婆を去って他界に往くに違いないという他界観に騙されている。これも「比べる」という煩悩に騙されて、そう思い込まされているだけだ。
「浄土」の「浄」とは、名詞ではない、「土を浄化する」という「動詞」である。「浄化する」とは衛生観念を用いた譬喩に過ぎない。もっと言えば、我々の固定観念を解体し、思い込みを解体する作用のことだ。だから、いまここを除いて「浄土」はない。
ただ残念なことに、人間が使う「いま」とは、「いま」と言った途端に、直ちに腐って「過去」に飲み込まれてしまう「いま」なのだ。だから、「浄土」は永遠に人間の認める「いま」にはならない。決して、「過去」に飲み込まれないように「浄土」ははたらき詰めにはたらいている。
それを敢えて、「いまここが浄土だ」と言ってみたかった。
つねに「浄土化」しようとしている運動そのものが「真の浄土」である。だから永遠に実現不可能な運動でもある。こんな純粋な運動を目の前にして、充たされないひとはいない。それもひっくるめて、「いまここが浄土」なのだ。