親鸞は、「唯除五逆 誹謗正法」の文字そのものの解説は、『尊号真像銘文』の、ここでしかしていない。それが、これだ。
「『唯除五逆 誹謗正法』というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。」
五逆という刑法的犯罪を犯したひとも、誹謗という宗教的罪を犯したひとも、それらの罪が実に重たい罪であることを呈示して、その上ですべての人々は一人残らず救われるのだと言っている。
この表現を読んでいつも、私は物足りなさを感じてしまう。親鸞よ!それだけでいいのか?そんなあっさりした表現に貴方は満足していたのか?この「唯除五逆 誹謗正法」は、信仰への目覚めを起こすための、我々にとって、唯一であり、究極の「目覚まし時計」ではないのか!それなのに、たったそれだけの表現で完結してしまってよいのか!と。
まあ、「唯除五逆 誹謗正法」を思想的に扱っているのは、『教行信証』信巻の後半部分であることは間違いない。『涅槃経』の阿闍世の獲信、『浄土論註』の八番問答における「唯除五逆 誹謗正法」論。本当は、信巻の末尾に、「自分の言葉」で、この結論を書くべきだったと思う。しかし、信巻には他の巻と違って「自分の言葉」で書いた結論のようなものがない。だから、信巻は未完成だったのではないか、などという憶測も生まれた。
まあ傲慢なことを言えば、その結語を私が書かねばならないのだろう。もっと言えば、我々一人一人に、結語を書きなさいと訴えているのかも知れない。そのために敢えて、結語を置かなかったとさえ考えたくなる。
それはともかく、この『尊号真像銘文』の書き方は、いわば「ストーリー的表現」になっている。起承転結があって、最後はハッピーエンドという書き方だ。だから、読んだものは、そうでしょうね、それしかありませんよね、ご無理ごもっともという感じになる。
この平々凡々とした「ストーリー的表現」に斬り込みを仕掛けねばならない。いわば、その先鋒は「逆説隊」だ。逆説以外に、信仰をまっとうに表現する方法はない。
言えば、「唯除五逆 誹謗正法」のものは「唯除」されて決して救われない、と断言して、その「唯除」されたもののみが救いに預かるのだと反転させねばならない。
そのときに注意が必要だ。「唯除五逆 誹謗正法」のものであっても救われると言ってはダメなのだ。この「ものであっても救われる」と言ってしまえば、それは「ストーリー的表現」に堕してしまう。正しくは、「唯除されるもののみが救われる」と言わなければならない。これが「逆説隊」の斬り込みだ。
「唯除」されるがゆえに救われるのだ。これが究極の逆説的表現だ。しかし、それをまた説明してしまえば、いつのまにか「ストーリー的表現」に傾斜するので、本当は説明してはダメなのだ。このブレーキが親鸞に「自分の言葉」で結語を書かせなかったのかも知れない。それでも、その替わりと言ってはおかしいが、「疑惑和讃」と「愚禿悲嘆述懐和讃」で、「唯除」の意味世界を展開してはいると思う。
でも私は説明したくなる。この「ものであっても救われる」という表現は、最終的に、自分も救われる者の範囲に入ってしまうという認識だ。どれほど罪を犯しても、それであっても阿弥陀さんは見捨てずに、救ってくれると断言すれば、その救われる仲間に、いつの間にかちゃっかり自分が入っているではないか。これが「ストーリー的表現」である。
ところが、「唯除されるがゆえに救われる」とは、唯除が阿弥陀さんの唯一の救いの方法という認識だ。第一義的な意味で、「唯除」されるとは、「決して救われない」という徹底認識だ。まあ「機の深信」と同じ意味だ。ところが、この「唯除」は救わないための「唯除」ではなく、救うための「唯除」だったのだ。これは阿弥陀さんの秘技と言ってもよい。
「ものであっても救われる」という表現は、罪の状態が最悪な状態であり、その地獄の底であってでも、阿弥陀さんの大悲は見捨てないで、極楽へ引接して下さるというイメージだ。最下底の位置から、最上空の位置へと上昇する感じになる。
しかし、「がゆえに救われる」という表現は、救われない状態から一歩も極楽へと上昇しない。最下底から最上空へと移動せず、場所は最下底から一歩も動かない。これが「地獄一定」(『歎異抄』第二条)の位置に違いない。この場所に阿弥陀さんが下ってくる。阿弥陀さんが下ってきて、そこから浄土へと上昇させるのではない。下ってきて、阿弥陀さんに遇えばよいだけだ。
それが「唯除されるがゆえに救われる」という逆説的表現になる。しかし、どれだけそれを説明しようと、「…がゆえに救われる」と言ってしまえば、またぞろ「ストーリー的表現」に堕していくのではないか。本当は人間が、「…がゆえに救われる」などと言ってはダメなのだ。この「…がゆえに救われる」というのは、各人各人が内面深くに感じることであって、文字にして表現してしまえば、それはすべて「ストーリー的表現」に堕してしまう。
ここまで書いてきて、「文字」として表現を残せば、それはすべて「ストーリー的表現」にならざるを得ないという、もの凄く単純なことが明らかになった。そういう事情があって、『歎異抄』(後序)は、「機の深信」しか残さなかったのかも知れない。「機の深信」と「法の深信」を併記してしまえば、それは「ストーリー的表現」にならざるを得ないからだ。
「機の深信」の原文、つまり善導の書いたものは、「…信ず」で終わっているが、『歎異抄』の「機の深信」は、「…出離の縁あることなき身としれ」となっている。この「しれ」が重たい。