昨日は、静岡親鸞講座だった。
久しぶりに『なぜ?からはじまる歎異抄』を販売した。
実はお西の住職さんが、たまたまこの本を読んで感動し、組の聞法会へ来てくれと言ってきたのが切っ掛けだった。それも出雲地方の組だ。島根県へは羽田空港からひとッ飛びらしい。ということは、まだまだ『なぜ?歎』に触れていないひとがいるに違いないと思い販売してみた。重たいから15冊だけ持参したが、完売した。
私たち人間は、何を求めているのかと言えば、〈ほんとう〉の言葉だ。しかし、それは本質的に言葉で表現することはできない。不可称不可説不可思議だから。
それを重々承知の上で言葉を使う。言葉で表現することは不可能なことを、あえて言葉で表現する。
ただその言葉が〈ほんとう〉を醸しだす場合がある。醸しだされる場所は、個々人の内面である。〈ほんとう〉が内面に醸しだされると、その人は「ああ、そういうことだったのか」と頭が下がる。
「そういうことだったのか、こういうことだったのか」と頷くことしかできない。それに対して、「それはどういうことですか?どういう意味ですか?」という問いが死ぬ。
親鸞が「恥ずべし、傷むべし」と頷いたように。
それは本当に静寂な世界だ。人間界は雑音の世界。まさに「有音の世界」。
しかし阿弥陀界は静寂そのもの。「無音の世界」だ。この「無音の世界」があるから、「有音の世界」で呼吸できる。