「往相・還相」を「垂直ベクトルと水平ベクトル」で理解する

 NHK・Eテレの「100分で名著」で『教行信証』が取り上げられている。解説は釋徹宗だ。一回が25分構成で全四回で読み切る形になっている。今回は、第三回で、「究極の利他「還相回向」という話も出てきた。
 真宗教学上、この「還相回向」の理解が曖昧になっている。これがどこから出てきたかと言えば、もとは、『仏説無量寿経』の四十八願の第二十二番目にある願文である。これを中国の曇鸞さんが注目し、親鸞はこれを浄土真宗という教えの骨格用語として採用した。
 曇鸞の原文を引いておく。「回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。
還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。」(『教行信証』信巻)
「往相」は「往生浄土の相」の略で、行者が自分の功徳をすべてのものに施して、願いを発さしめ、一緒に阿弥陀さんの浄土に往生させてくださることである。
そして「還相」とは、「還来穢国の相」の略で、行者が臨終して、浄土に生まれたならば、そこで〈真実〉を見る眼が開かれ、再び娑婆に戻ってきて、すべての人々を教え導き、一緒に仏道にこころを向かわせるということだ。
 今回の放送でも、「浄土に往生したものは、涅槃へと向かわず、菩薩となって再びこの世界に戻り、人々を浄土へと導く」ことが還相回向として語られていた。
 問題は、往相したり還相したりする主体は何かという問題だ。曇鸞の場合でも、そこが曖昧なので様々な理解が生まれてしまった。その主体は阿弥陀さんなのか、人間なのか、凡夫なのか、いや菩薩なのか。その四者の関係はどうなのか。その辺が曖昧なのだ。
 それで私はそれを整理する意味で、「垂直ベクトル」と「水平ベクトル」と、便宜上分けて考えてみた。
「垂直ベクトル」とは、阿弥陀さんと自己という絶対関係である。この意味場に於ける、「往相・還相」はどうなるか。ここでの「往相・還相」の主体は阿弥陀さんになる。だから、自己に「往相」のはたらき、つまり浄土往生を指向させるはたらきは阿弥陀さんのはたらきである。それではそのはたらきはどこから来るのかと言えば、浄土から促されてきた阿弥陀さんの「還相」ということになる。
 信仰は、自己に「浄土往生」という方向性を与えるものだが、それは自己の内面に「浄土往生」が自発するわけではない。どこまでも阿弥陀さんのはたらきである。その「往相」が生まれる根拠を「還相」というのだ。「往生浄土」を目指す「往相」という指向性そのものが、実は浄土からもたらされた阿弥陀さんの「還相」作用という理解だ。
 たとえて言えば、山腹にあるロープウェイのようなものだ。麓のロープウェイと山頂のロープウェイは一本のロープで繋がっている。だから麓のロープウェイが山頂に向かおう(往相)とするとき、山頂のロープウェイが麓へ移動(還相)するようなものだ。麓のロープウェイに「往相」という運動が生まれるのと、山頂のロープウェイが麓を目指す「還相」の運動が起こるのは同時である。まあ、「往相回向」の根拠として「還相回向」が要求されてきたのではないか。元々は、「如来回向」という一つの出来事であり、それをあえて理解しやすいように、「往相・還相」と二項に分けて表現したまでのことではないか。
 これが「垂直ベクトル」の意味場における「往相・還相」である。もう一つが、「水平ベクトル」の意味場における「往相・還相」である。
 これは自己と他者の相対関係に於ける「往相・還相」である。ある個人に「垂直ベクトル」の阿弥陀さんと自己の意味場が開かれたとき、そこに「水平ベクトル」が生まれる。これも譬えてみれば、師弟関係である。師と弟子とは、客観的にあるものではない。師は自分が師だなどとは思っていない。一介の凡夫に過ぎないと思っている。ただそのひとを横で見ているひとがいる。そのひとが、一介に過ぎない凡夫を見て、そこに仏法の真理を感じ取り喜んだとすれば、そのひとにとって、一介の凡夫が、「師」として受け取られる。「師」が生まれれば、その「師」を「師」として敬う「弟子」が誕生する。だから、人間の自覚としては、「弟子」以外にはない。「師」は客観的に存在しないし、自分が「師」だと豪語することもできない。ただ、その一介の凡夫から仏法の真理を受け取り、そのことで自分の生きる道が暗示されたとき、「弟子」と「師」が同時に誕生する。師弟というものは、そういうものだ。仏法には「仏弟子」しか存在しない。ただしく言えば、「仏弟子」とは、そのひと自身の自覚内容であり、「師」は、その「弟子」のこころの中、以外には住めない。
 親鸞は、法然を還相の師として受け止めていた。つまり、浄土からこの娑婆へ還ってきて、私を教え導いて下さるかたと受け止めた。それで、『教行信証』証巻には、「還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり」と記したのかも知れない。還相の回向とは、利他だから、他者を救い、教え導く御利益だと。この「益」という言葉は、自分が意図的に生産するものではなく、あくまで自分が期せずして後から与えられるご褒美という意味だ。だから、自分が「利他教化」をするなどという意識はない。ただ、「往相」に促されているひとを、横から見たら、そのひとから期せずして教えられ感化されたという意味だろう。還相回向とは、自分が人々を教え導くということではない。教えられたひとのこころにのみ感じられるものである。
 だから、自分が死んで往生した後に、この世へ帰ってきて人々を教え導くという意味では、まったくない。どうも江戸時代までは、ひとが亡くなって往生した後、再びこの世へ帰ってきて人々を救うという発想で考えられいたようだ。そういう理解は間違いだ。
 妙好人・讃岐の庄松もそこのところをよく理解していて、住職に「それでは還相回向の御利益は」と問われたとき、庄松は「それは己が喜ぶと、人が拾うて喜ぶのじゃ」と答えている。この「己が喜ぶ」とは、庄松が「往相回向」を感じて喜んでいるとという意味だ。そして、庄松がその味わいを語っていると、それを聞いたひとが、さらにそのことを喜ぶ、つまり、「還相回向」の利益を受けることになる。それを「拾うてよろこぶ」と、実にうまい譬喩で語っている。
 以上のように、「往相・還相」を「垂直ベクトル」と「水平ベクトル」で考えてみれば、少しはハッキリするのではないか。