養老先生、もう一歩

 2026年7月5日のNHKスペシャルで放映された養老孟司の「私の往生際」という番組を観た。
 2024年11月5日に出版された『養老先生、がんになる』が出てから、病状はどうだったのだろうかと思っていたので、早速、観た。主治医の中川恵一医師の治療のお陰もあろうが、抗がん剤の効果で、胸のガンが小さく、ほとんど見えないほどにまでなったという。それは喜ばしいことだ。
 テレビでは、抗がん剤治療の副作用で倦怠感や食欲減退の苦しい姿も映されていた。愛猫まるが亡くなり、まるを模したスクイーズのようなものを撫でている養老先生が映っていた。
 一時期は、死を覚悟していたけれども、ガンが小さくなり死が遠ざかっていくと、「なんで生きてるんだろう?」という問いが、ムクムクと頭をもたげてきたようなことを語られていた。もちろん若い頃から、この問いを考えていたに違いない。しかし、先生も「この歳になると」と言われていたが、問いの重さが若い頃とは違ってきたのだろう。
 ガンの治療をしているときは、治療に専念して苦しさに堪えることだけで精一杯だ。しかし、ガンが小さくなり寿命が延びたと確認されたら、それ全体が、何のためにやっているのか、つまりは、死期を延長しているだけじゃないか、と思われたのだろう。
 そこで再び、「自分は何のために生きているのか」、「生きるとは何なのか」という問いが切実な感じになってきた、と思われる。
 ひとはなぜ生きるのか、そんな問いに答えが出ないことは、先生も重々御存じだ。それであっても、ふと足下を見れば、その問いに捕らわれている自分に気づく。この問いは、自分が意識的に問うという質の問いではない。気がつけば、その問いに取り憑かれていたというような質のものだ。
 それは我々の深層からやってくる問いだから、表層の意識にとっては、まことに厄介な問いだ。答えの出ないことは分かっていても、ついついこころがそこに行ってしまう。
 まあ、私に言わせれば、その問いを問うのは、「貪欲(とんよく)」なのだ。これを仏教では、「菩提心」などと崇高な精神だとして持ち上げたけれども、本質は「貪欲」という煩悩なのだ。
 だから、「貪欲」が欲しがる答えは、「貪欲」のお好みのものにならざるを得ない。この問いは、深層からやってくる「貪欲」が問わせるので、これから逃れることはできない。ただ、それが「貪欲」という煩悩であって、こいつに騙されないということが大事なのだ。
 「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」(『歎異抄』第九条)と親鸞は言っている。先生も九十歳に成られたので、とうぜん「自分もやがて死ぬ」という思いでおられる。しかし、そのように考えさせるものが、「貪欲」なのだ。「貪欲」とは単純な貪りのこころではない、深層からやってくる巨大なうねりだ。欲望ばかりでなく、欲望が欲望として動き回る地盤を作っている。それは言わば「知」である。欲望は欲望だけでは自由に動き回れない。「知」という盤石があった上で初めて動き回れるのだ。この「知」が、欲望の陰に隠れていて「欲望」を操っていく。
「自分はやがて死ぬ」という「知」は、煩悩であり、貪欲がそのように考えさせるのである。だって、人間は本質的に「死なない」のだから。「死」は体験できないのだから。本当の「死」を知らないのに、「死」を知っていると勘違いさせるのが貪欲である。勘違いさせられた上に、さらに、その「知」に騙される。
 ここまで来てようやく、「死なない」ということの本質が明確になるのだ。この貪欲の構造が明確になるとき、人間は初めて「死なない」世界を手に入れることができる。
 それでは、あらためて問うてみよう。「生と死」とは何なのか。
 それは人間にとって、永遠の「不可知」である。この「不可知」ということを知ることが御利益なのだ。人間にとって、初めて「不可知」が、手つかずの「不可知」として安らぎを与える。「不可知」を不気味とか、不安で受け止めるのは、そのこころが貪欲に犯されているからだ。それでは、まだ本当に貪欲の構造を見破ってはいない。徹底的に、完膚なきまでに貪欲の構造を見破ること。恐らく親鸞が、「大信心は(略)長生不死の神方」(『教行信証』信巻)と述べたのは、そういうことを言いたかったのではないかと、私は密かに考えている。