『〈真実〉のデッサン11』でも触れたが、小池真理子の『月夜の森の梟』、そして城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』は、いわば「離別文学」とでも呼べそうだ。
二つの本は、伴侶の発病、そして死別までをドキュメンタリーの如く書かれている。まあ、城山三郎のは遺された断片を娘さんが出版したのだから、本人の遺稿と呼ぶべきか迷うところがある。
最愛の伴侶を失うのだから、そこには苦痛が伴い、「幸せな日常」を送っているひとにとっては、目に痛いことがたくさん書かれている。それでも怖い物見たさで覗き込んでみると、そこには、怖さを超えて、何か人間という生き物の、ほんとうのあり方が垣間見える。
小生も同じような立場で、デッサン11を書いたが、それは、「同じような立場」であって、決して「同じ立場」ではない。また「同じ立場」に立つことなど絶対にできない。「死別」とは、唯一無二の人間関係の産物だから、同じ物はこの世に二つとしてない。だから、自分もそういう経験をしたのだから、あのひとも自分と同じような経験をしたのだ、などと考えてはならない。
そう考えることがあったとしても、それは妄念だと思っていなければならない。
あるかたからは、「伴侶を失ったら半年はダメだね、まあ一年も経てば受け入れられるようになるよ」などと慰めの言葉をもらったが、それはあくまでそのかたの感じ方を述べているだけで、そんなものと私の経験が同じになるはずがない。
私は、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」といただいているので、そのひとの感じ方とはまったく違っているに違いない。「悲しみ」は、「貪欲rāga(とんよく)」という無意識にも近いエゴイズムが演出するものだと見破っている。だから、「貪欲」と「自分」とが完全に分離されている。分離されると、悲しみに乗っ取られ、悲しみに占領されることがなくなる。悲しんでいる自分を対象化して眺める余裕が生まれる。親鸞の言葉でいえば、「必ず転じて軽微なり」(浄土和讃)であり、「軽微」なものになる。
この「煩悩」と「自分」との分離が、〈真・宗〉を学んだことの御利益かも知れない。漠然と悲しんでいるすがたは、貪欲という煩悩に乗っ取られ、食い尽くされていく。いつも言うことだが、悲しみとは、自分のお気に入りのオモチャが取り上げられて泣きわめく子どもの心情だ。人間が人間を愛するということは、自己のエゴイズムを満たすためだけのものなのだ。生理的なセックスにしても、他者の身体を利用して、自己の快感を貪ろうとする行為に過ぎない。
人間の愛は、エゴイズム以外にはない。それは悲しいことでもなんでもない。ごくごく当たり前の、人間の心情だ。ごく当たり前の心情を、ごく当たり前に見えるようになる。それが〈真・宗〉だ。
近頃は、「〈真・宗〉は『死なない』宗教」というテーマでお話することが多い。「人間は死ぬ」が「自分は死なない」。死を一人称で体験できないからだ。これも特別なことを言っているわけではなく、ごく当たり前のことを、ごく当たり前に言っているに過ぎない。 こうなってくると、離別の痛手をいやすために、あるいは、死の恐怖を超えるために〈真・宗〉があるようなことになりかねない。そういうことでは、〈真・宗〉が汚れてくる。離別の痛手を癒やすために〈真・宗〉を学ぼうとすることは、間違っている。
〈真・宗〉を学んだ結果に、そういう利益が与えられるというのが正しい言い方だろう。本末を逆転させてはだめなのだ。
究極は、やはり、一人一人が阿弥陀さんと出遇うだけだ。阿弥陀さんとは、の〈真実〉のことだ。それに一人一人が出遇い、一人一人が阿弥陀さんと格闘すればよい。それ以外に、他のことは要らないのだろう。
それが阿弥陀さんに取り憑かれた末裔の戯言である。