言葉は、ひととひととの意思を通じるための社会的ツールだが、宗教表現はモノローグであるべきだ。モノローグということは、誰に向かって発せられている言葉かといえば、それは阿弥陀さんに向かってだ。たとえそれが法座で語られた言葉であっても、それは聴衆を透過して阿弥陀さんに向けられた表現になる。確かに聴衆がいなければ生まれない表現であっても、表現の焦点はそこにない。すべてが、阿弥陀さんに差し出された表現だ。親鸞であれば、手紙は念頭に受取人を想像しているに違いない。しかし、いざ言葉を紡ぎ出すと、それは念頭にあった受取人を超えて、阿弥陀さんに向かった表現になってしまう。だから、受取人は直接の対象者ではない。表現者は阿弥陀さんに向かってのみ言葉を紡ぐ。その言葉を横で見ていて、拾って喜ぶひとが生まれるだけだ。私も親鸞の言葉の落ち葉を拾って喜ぶだけだ。もし、表現の対象が人間だったら、これは嫌らしい表現になる。「信ぜよ」とか「帰命せよ」とか、「身を粉にしても報ずべし」とか、誰が誰に対して言ってるのかということになる。これは人間が人間に対して語ることを許さない言葉だ。唯一、阿弥陀さんと対話した人間のモノローグとしてのみ許される言葉だ。阿弥陀さんから絶対命令を聞いた人間のモノローグなのだ。