ハードコア〈真・宗〉

私の語る〈真・宗〉はハードコアなので、常識人には忌避される。「ハードコア(Hardcore)」とは「物事の中核や本質、あるいは過激で妥協のないスタイル」という意味だそうだ。
だから、「あなたの話は仏教の話ではなくて、哲学ではないですか」などという反応として返ってくる。自分では仏法について語っているつもりなのだが、聴衆には「哲学の話」として聞こえてしまうようだ。それは使う用語が、一見すると「哲学的」と称される漢語(熟語)が散見されるからかも知れない。
 まあ西洋哲学とは言っても、日本人が考える哲学用語は、ヨーロッパ現地の用語ではなく、漢語翻訳語である。「理性・存在・概念・実存」等々、すべては漢語翻訳語である。もし日本人が西洋哲学を学ぶと言っても、漢語翻訳語で学ぶのであれば、それは西洋哲学とは言えないかも知れない。
 それで西洋哲学科では、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語などの現地語を学ぶのだ。現地人の思考回路を現地の用語で考え身につける。それで、漢語翻訳語の「存在」と、ドイツ語のSeinが同じ意味として通じ合うことを経験する。厳密に言えば、百%通じることはないだろう。どうしても言語が違うということは、感じ方が違うことだから、百%一致することはないのだろう。それでも、まあまあ大体、同じような意味として通じるのだと思う。
 それで、「言語」は違っても、「意味」はヨーロッパ人と日本人の共通理解として成り立つ。表層の「言葉」は違っていても、深層のところにある「意味」は民族を超えて共通理解が成り立つという前提に立っている。これを援用すれば、「言葉」は違っていても、それが指し示す「意味」は人類共通の普遍性にまで達するということだ。通じ合うというロマンがなければ、人々は「言語」を発しないのかも知れない。
 私の考えのスタイルを言えば、いままで仏教語で語られてきたことを、再度、人類の普遍性にまで還元して表現してみたいということだ。もちろん、仏教は人類の普遍性を目指した思想であることに違いはない。しかし、表現されたものが専門的になればなるほど、現代の知の状況から離れてしまった。それらの専門用語を再度、現代の知で洗い直し、再度、表現してみたいというのが願いだ。だから、どうしても「哲学的」と呼ばれるような現象が起こる。しかし、それは、単に仏教語を「哲学用語」に置き直すという意味ではない。まず、いままで仏教が問題にしてきた深層まで降りていき、その深層から再度浮上して「現代の知」の状況へと翻訳し直すことである。
「現代の知」のあり方とは、どうしても「思想的・哲学的」な用語の世界にならざるを得ない。違った言い方で言ってみよう。つまり、「信」の世界を「信」の領域の言葉で表現するのでなく、「信」の世界を「知」の領域の言葉へと開放することである。現代人は、「現代」を生きているので、現代の「知」の言葉であれば、何となく意味を察することもできるだろう。また、それをやらなければ、「信」の世界自身が閉塞してしまうだろう。「信」の世界にいる人々は、「信」の世界の言葉だけで意味が通じてしまう面があって、それ以上の追究が難しい。それを再度、分解することによって、つまり、現代の知の状況へ還元することによって、「信」の世界に風穴を開けることが可能になる。そこに新しい風が吹き込まれるに違いない。
 キリスト教が「哲学」と出会い、両者が格闘することによって、キリスト教神学が成熟し、「哲学」自身も成熟した例もある。やはり、「信」の領域を再度、「現代の知」の状況へと還元する作業は必要だと思う。
 でも、それは単なる還元であってはならないだろう。やはり、「信」という深層領域で思索されていなくてはならない。元も子もなくなるような言い方をすれば、「信」の領域も、「知」の領域も、ともに普遍的な深層に根をもっているということだ。その深層へと降りていき、その深層から新たな言語が生まれてこなければならない。曽我量深は、それを「回向は表現である」と言った。深層から言語が生まれて来るということは、そこに「自分」という思いが消えているということだ。「自分」があって、そこから表現が生まれるのではない。あくまで「向こうから」、つまり、深層からの促しがあり、それに促されて言葉が生まれてくる。だから、如来から促されてきた「如来回向」として表現が成り立つという意味だ。私の使う、〈一人一世界〉なども、回向されてきた言葉であるので、自分が作ったという言葉ではない。だから、自分にとっても、まだまだ未解明の用語である。最初に「言葉」が与えられ、その「意味」を一生掛かって表現するという仕事が与えられるのかも知れない。
 さて、「ハードコア〈真・宗〉」は、私が作った言葉というよりも、親鸞の表現態度から促された言葉である。それを私は「〈真・宗〉は劇薬だ」などと言ったりしている。親鸞の表現は「劇薬表現」だ。例えば「悪人成仏」だとか、「往生のために千人殺してみろ」とか、「父母の供養のために一回も念仏したことはない」とか、「親鸞は弟子を一人ももった覚えはない」とか、「犯罪者と呼ばれても念仏者と見えるように振る舞うな」とか、「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」とか、「無慚無愧のこの身」とか、数え上げればキリがない。
 劇薬とは、健康な人間に使えば毒となるが、病人に使えば薬となるものだ。劇薬表現を健康人が見れば、毒に見えてしまうから近寄り難い。しかし、病人にはそれが特効薬になる。つまり、この劇薬を毒とするか、それとも薬とするか、それは受取る人間にまかされているということだ。どこまで言っても仏教は、「如是我聞」を、個人に迫ってくるものだ。それをどう受け取るかは、徹底的に個人にのみまかされているし、それ以外に仏教は、どこにもない。
 なぜ親鸞は、そこまでして劇薬表現を採ったのだろうか。それはやはり、〈真・宗〉はハードコアだからではないか。つまり、生ぬるい「常識」へ還元しようとする表現を打ち砕き、その中核にある問題を炙り出すのだ。「常識」とは、固定観念であり、せっかく「信」を表現しようとしているのに、それを「常識」へと固定化してしまう。「固定化」とは、AかBかという相対的立場を決めさせてしまうことだ。つまり、「悪人成仏」という言葉を聞いて、「自分は悪人なんだ」と固定化してみたり、「いや、悪人こそが救われるのだ」と固定化してみたりする。この固定化を打ち砕く。
 ハードコアとは、その深層へ降り立ち、その相対的立場を与えない表現だ。つまり、Aの立場もBの立場も奪ってしまう表現だ。ひとは相対的立場を採ることで安心しようとするのだが、それはハードコアではない。だから、〈真・宗〉は、本質的に「教化・教育・布教・訓育」などという言葉とはそぐわないものだ。
 むしろ、「固定化した常識」を解体する装置である。この解体は、否定的なニュアンスをまとっているが、そうではない。解体することで、「固定化した常識」で苦しんでいたものを解放するのだ。解体は「救い」なのだ。この「救い」のためには、ハードコアでなければならない。ハードコア表現でなければならない。