自分以外は「諸仏」の深層

 この世で、目にするものはすべて「諸仏」である。家族は「菩薩」である。「自分」以外のあらゆるものはすべて、私を教え導く「菩薩」である。
 これは吉川英治の「自分以外は皆我が師なり」という文脈で言っているわけではない。これはあくまで人間関係上のことを想定しているのだろう。「自分以外は皆我が師」とは、「反面教師」も「正面教師」も含めて、すべては私という存在を教えてくれる「先生」という意味で述べられているのだろう。
 私は、人間もそうなのだが、この世の現象界すべてが「諸仏」だと考えている。それは自分以外のあらゆる現象界の事象を「諸仏」と考えるということだ。そうなると、現象界の一つとしての「自分」も「諸仏」と考えられるかどうかだ。
 その場合の「自分」をどう考えるか。一般的には、この肉体を包んでいる皮膚の内側を「自分」と呼ぶだろう。だが、肉体のどの部分を見ても、「自分」が生み出したものは一つもなく、すべて「自分」の「思い」以前に与えられていたものだ。だから、厳密に見れば、肉体は「自分」のものではなく、もっと言えば、「自分」ではないことになる。
 肉体は、「自分」の思いに忠実に従ってくれるので、これが「自分」ではないなどとは思えない。手を上げようと意志すれば、手を上げることも出来る。目を閉じようと意志すれば、即座に目を閉じることもできる。だから、これが「自分」ではないなどと思ってみたことがない。
 しかし、仏教が発見した「老病死」は、この肉体が「自分」の意志とは違う次元にあることの驚きである。「老病死」は、肉体が意志とは違う次元にあり、決して意志の自由にはならないことの驚きである。やはり、肉体は、「思い(意志)」とは異次元にあるものなのだ。
 それであるのに、肉体は「思い」に忠実に従い、従順な僕のように振る舞うので、これがあたかも「自分」の物であり、「自分自身」だと錯覚してしまう。むしろ、錯覚させるのが肉体の巧妙な罠なのかも知れない。若いときには、その罠に気付くこともない場合が多い。
 ところが、あるとき、肉体は「思い」に対して反逆を起す。「お前の思いどおりにはならないぞ」と。これは「思い」にとって、とてもきつい教育である。しかし、教育であることは間違いない。
 教育をする肉体とは、「諸仏」の次元にある。「自分」にとっては、最も身近であり、脱ぎ捨てることもできないほどの「諸仏」である。「諸仏」は言うのだ、「私は、お前の所有物ではないぞ」と。むしろ「お前を、一番身近なところで支えているのだぞ」と。こういう教育を受けることで、肉体こそが「諸仏」であったことを思い知らせる。
 さらに言えば、この肉体もモノ(物)ではなく、コトである。モノとコトという発想は、精神医学者の木村敏さんの用語だ。仏教語に翻訳すれば、モノ(方便法身)とコト(法性法身)である。モノは目で見ることができるが、コトは見えない。だから、肉体というモノは見ることも触ることもできるが、コトとしての肉体は見ることも触ることもできない。「思い」が感じ取れるのはモノとしての身体だけである。
 解剖学者の養老孟司も言っていた。「構造」としての臓器はモノとして取り出すことができるが、「循環」は取り出すことができない、と。「構造」としての心臓や肺は取り出すことができるが、それらが体内で、現実に動いている動きそのものは取り出すことができないと言うのだ。これが、モノは見えても、コトは見えないという意味だ。
 確かに、ご飯を食べても、それが体内でどのように消化されていくのかなど、目で見ることは不可能だし、いくら考えても考えの及ぶことはない。そのモノではなく、コトとしての身体が「諸仏」なのだ。だから、「諸仏」は目で見ることができない。目で見られるのはモノとしての身体のみである。
 肉体が「諸仏」の次元にあることは、これで分かった。最後に残る問題が、「自分という思い」だ。この「思う」ということに自分の根拠を置こうとしてきたのがデカルトかも知れない。「我思う故に我あり」とは、「思う」ということだけは自分が思っていることであり、それは決して疑うことができないという発見である。そこまではよいのだが、私は「思う」ということも、受動と能動があると思う。つまり、「思う」ということにも、「思い」が発動するまでの因縁があり、その因縁が熟して「思う」ように仕向け、「思う」という現象が起こってくる。つまり、「思う」が現象として起こる以前には、「思う」が始動するまでの背景があるということだ。それらは自分にとって受動的なことではないか。一般的に「思う」ということは、自分から始発する能動性だと考えている。しかし、それは間違いであり、まず受動があり、それが始動するのだが、「思い」は、それを能動だと錯覚しているのだ。
 つまり、「思い」も、何かに「思わされ」、その上で「思っている」ということが辛うじて成り立つ。そこまで突き詰めて見ていくと、「思う」ということも、「諸仏」の次元にあることだった。つまり、「自分」ではなく、「自分」の外部からやってくる何事かなのだ。
 そう考えると、「思い」に自己責任を感じることがなくなる。「こんな下らないことを考えてしまった」とか、「とてもひとには言えないような醜いことを考えてしまった」と思ったとしても、そこに自己責任を感じて、自己を蔑むことがなくなる。そう「思った」ことは、そう「思わせた」何かに責任があるのであり、「自分」に責任の根拠があるわけではない。「自分」から責任の根拠が奪われるのだ。
「思い」も、自分の自由に「思う」ことはできない。好きな夢が見られないのと同じように、自分の好きなことばかりを考えることはできない。「思い」も自分の外部からやってくることだと分かれば、その「思い」と新たな関係を結ぶことができる。「思い」と「思わせたもの」とに間が生まれ、「思い」に支配されないようになる。この「思い」と「思わせたもの」との関係が構築できれば、「思い」も与しやすい。
 自分は、何でも自由に思うことはできない。「思わせるもの」がはたらかなければ、「思う」ことができないのだ。自分は、「思った」という結果以外を知ることができない。まあ、これは当たり前なことだ。何かを「思う」前に、何を思おうかとは知らされていない。いつでも「思った」後になって、「こんなことを思っていたのか」と振り返ることで「思い」を知るのだ。
 こうなると、原初の「思わせるもの」とは「諸仏」なのかも知れない。「諸仏」という言葉も手垢の付いた言葉だから、「立派な存在」のような固定観念を持たれてしまうが、そうではない。自分に何事かをもたらす、得体の知れない不可思議なものという意味だ。『歎異抄』は「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。」(第九条)と言う。少しでも病気や体調不良になれば、もしかしたら、このまま死んでしまうのではないかと心細く思うのも煩悩の仕業なのだ、と。
 ここでは、我々を不安にさせる正体を「煩悩」と言っているが、これは単に否定的な文脈で述べられてはいない。心細く思わせるものが「煩悩」だと教えられたと言っているのだ。それが「煩悩」だと見えれば、「煩悩」に振り回されることがなくなる。「煩悩」が「煩悩」として見えないから心細くなるのだ。心細くする正体を教えられれば、その「煩悩」の詐術を見破ることができる。
 こうやって、「教えられる」という言葉で受け止めれば、教える主体は「諸仏」であると言える。「煩悩」とは、自分が勝手に起すことのできるものではない。それは自分の奥深くからやって来て、自分を教える先生ではないのか。
 まあ、私はかねてから、「〈真・宗〉は『死なない』宗教」などと言っているので、「死」は観念であり、現実に身をもって一人称で体験することのできないと思っている。この考えをもって『歎異抄』の言葉を見れば、病気になって死ぬのではないかと心細く思うのも、現実の「死」を怖れているのではなく、「死」という観念を怖れていることが分かる。その「死」を怖れさせているのは、貪欲という煩悩だ。貪欲は、自分に都合のよいことのみを貪り、自分に不都合なことを徹底して排除するという深層心理である。この貪欲が、「生=幸福」・「死=不幸」と判断し、幸福(生)を消そうとする不幸(死)を毛嫌いし、怖れさせるのである。
 こうやって、貪欲の構造が分かれば、心細く思うこころからいくらか身を遠ざけることができる。そして、「死を漠然と怖れず、死を『正しく』怖れる」ということが成り立つ。このフレーズは、コロナ騒動のときによく使われた。「コロナを漠然と怖れず、『正しく』怖れよう」と。これをオマージュしてみた。コロナウイルスは「怖れ」なければいけないけれども、ただ怖い怖いと漠然と「怖れ」るのではなく、知識を正しく持つことで「正しく怖れる」ことが必要だと言われた。
 私は、まず、「死」は物理的なことでも、生理的なことでもなく、「観念」としてしかないのだと「正しく」知ることが必要だと思う。第二に、その「観念」を貪欲という煩悩が操っていることを「正しく」知るのだ。そう分かれば、「死」を「怖れる」こころから離れることができる。それだからと言って、いくら「死」は「観念」だと言い、貪欲がそれを心細く脚色していると知ったとしても、やはり「死」は心細いものだ。心細くしている貪欲から逃げ切ることは不可能だ。そもそも我々は「煩悩具足の凡夫」なのだから。やはり、貪欲という煩悩に蹂躙され続ける存在なのだ。ただ、その構造が分かればよいのだ。そのカラクリが分かれば、必要以上に「死」を怖れることからは解放される。それが「死」を「正しく」怖れるということになるだろう。