第22回 静岡親鸞講座(2026年3月25日)の質問&感想に応えて

1、講座では先生は「真宗は死なない宗教」とよくお話されています。又『よびごえ』vol,142では、坊守さんが「私よりちょっとだけ先に行って、私の席を取ってくれているだと思います。また会える日は必ず来るので、今は安心しております」と書いてありまた。又親鸞さんお手紙第35通、「たずねおおせられ候には念仏して往生するのである深く信じ、なおかつみ名を称えてはじめて、間違いなく弥陀の報土に往生することがでするのです。必ずや貴方に先立って往生を遂げることでしょうから、浄土で必ず必ず貴をお待ちいたしましょう」とあります。私はうたがいの気持ちがあるためか、なかなかう思えません。死ななくて、また会える世界があり、まっているぞということでしょうか念仏して往生するのであると深く信じるとはどういうことでしょうか。講座はこれから出来るだけ出席しようと思います。

武田→ このご質問を読ませていただいて、すぐに感じたことは、実によくご自分に引つけてお考えだなと感心させられました。私は、一方では「真宗は『死なない』宗教」どと言っておきながら、他方では「浄土でまた会える日が必ず来る」などと言っていますつまりこれは矛盾したことを言っているのです。この矛盾にお気づき下さったことは、ても有り難いことだと感じました。
 まず、「真宗は『死なない』宗教」という表現は、「原理教学的表現」です。つまり、〈実〉に対峙した表現です。これは真理ですから、枉(ま)げることができません。人間にとっ「死」とは「観念」に過ぎませんから、「一人称の死」は体験できません。それであるに、人間は「他者の死」を見て、「死」の〈真実〉を見たように錯覚します。それは「念の死」であって、「〈真実〉の死」ではありません。ですから、「死」んで浄土に往くか、どこへ往くのか、そんなことは理解の範疇を完全に超えています。ここまで理解でれば、「死後に浄土へ往くのか、どこへ往くのか」という問題関心への執着から解き放れます。まあ、これが「南無」という意味です。阿弥陀さんにおまかせするという意味す。
 この「原理教学的表現」が成り立つと、そこから「臨床教学的表現」を無限に「遊ぶという世界が開かれてきます。ですから、「女房が私より先に浄土へ往って待っているという表現や、親鸞聖人が、「浄土で必ず必ず貴方をお待ちいたしましょう」という表が生まれて来るのです。これは、自分が死後に浄土に往って、そこで再会すると考えてるという意味では、まったくありません。そもそも「死後の浄土」などは、すべて人間「観念」であって、そんなものは無いとも在るとも思っていないのです。それは人間のの範疇を完全に超えていることですから、そういう関心をすべて阿弥陀さんにおまかせているのです。おまかせしているところから、「遊び」が生まれるのです。おまかせしいるので、後のことはすべて阿弥陀さんがいいようにして下さるのだと開け放しています。 ご質問のかたは、「私はうたがいの気持ちがあるためかなかなかそう思えません。」と直に語られています。「そう思えません」というこころを分析してみれば、浄土真宗を、「後」に浄土があり、そこへ間違いなく「往く」と信じることだと思われているからではりませんか。この疑問の中に、すでに答えは包まれてあるのです。「そう思えません」言えるのは、「そう思える」自分のこころを信じていることの裏返しなのです。つまり自分の知を信じているのです。自分の知を信じている限り「南無」にはなりません。「無」が成り立てば、「死後の浄土」というものが観念であり、〈真実〉ではないと教えらます。ここまでくると、「浄土」は在ってよし、無くてよしという「遊び」の世界が与られます。
 親鸞聖人が、「遊煩悩林現神通(煩悩の林に遊びて神通を現じ)」(「正信偈」)で詠われ「遊び」とは、阿弥陀さんに向かって表現の自由を得ることなのです。つまり、浄土がるなどとはこれっぱかしも信じていないのに、浄土に往って待ってて下さいねなどと、託なく言えることです。この「南無」が成り立つことで、初めて「阿弥陀仏」と言う世を「遊ぶ」ことができるのです。「阿弥陀仏」とは、人間の知では決して「分からないという意味ですから。「南無(原理教学)」が成り立たつことで、「阿弥陀仏(臨床教学)を遊べるのです。親鸞聖人は『教行信証』(信巻)で「仏意惻り難し」と仰います。阿陀さんのこころなど人間の自分に分かるはずがないと。これが「南無」という「原理教的表現」です。この「南無」の一点から膨大な「阿弥陀仏表現」が生まれて来るのです阿弥陀さんのこころなど分かるはずがないからこそ、阿弥陀さんのことについて無限に現できるのです。もし人間が阿弥陀さんを、〈真実(ほんとう〉に知っているなどと言えたら、そは恐ろしいことです。それは間違ったことを言うことになるからです。指一本も、阿弥さんに触れることができないから、逆に、人間は自由に阿弥陀さんについて表現できるです。どこまで阿弥陀さんについて語っても、それは〈真実〉ではありません。〈真実ではないということを教えられることが最大の御利益なのです。

2、むずかしくてわかりにくい。わからないことが多い。くり返し聞くと理解できるかも。

武田→ 「理解する」というよりも、そこに身を置いて、何かをお感じいただければ、れでよいのです。曽我量深先生は、「感応道交」という言葉をよく使われていました。かを感じることのほうが、知ることよりも、より深いことですから。何かを感じてもらればよいと思います。本質的に、人間には「理解」できないことを語っているのですから「理解できない」と落胆する必要はないのです。
「難しい」ということですが、親鸞聖人が、「正信偈」で、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯(信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし。)」とるのは、「因位の難」ではなくて「果位の難」のことなのです。「因位の難」とは、さあれから信心を得るぞと、未来にこころを向けたときの難しさです。「信心を得ることはそれほど難しいことなのか」と絶望的になる「難」の受け止めです。しかし、親鸞聖人言うのは「果位の難」です。それは「信心を得ることは、これほど難しいことだったのかと過去を眺めたときの「難」です。
「因位の難」を難しいと感じるのは、実は「自力のこころ」なのです。自分で信心を起そうとするのですから、これは「難しい」のです。この「難しさ」は、阿弥陀さんに責があるわけではなく、我々人間の側にあるのです。阿弥陀さんは、「無条件の救い」を束されているのに、人間はそれを「条件的救い」と取り違えてしまうからです。そして「どうしたら信じることができるか」と発想してしまうのです。この「どうしたら」とう発想は、自分の力でやりますから、その方法(条件)を教えて下さいというこころのえです。これが「自力」です。ですから、「難しさ」を引き起こしているのは、我々の「力のこころ」そのものなのです。この「自力」が「難」を生み出していたのかと、気づことがとても「難しい」ことなので、「難中之難無過斯」と仰ったのです。「難しさ」は「力のこころ」が感じる「難しさ」なのです。「果位の難」は、「難しくてよかった、人間分かってしまったら、『人間程度のこと』になってしまいますから」と言える「難」なです。

3、「親鸞講座」の翌月に行っているおさらいの会「正信偈に学ぶ会」の座談会で話題になったこと。

(1) 富士山の山登りの譬喩が難しくてよくわからないです。
武田→ 「(1)富士山の山登りの譬喩が難しくてよくわからないです。」ということに関てですが、私たちは自分の「常識」を信じて疑いませんから、「難しい」と感じるのです富士登山の譬喩で言えば、富士山とは、「浄土」のことです。「浄土」を目指して一歩ず登ると考えるのは、人間の「常識」です。毎日少しずるやれば、必ず目的を成就するこができると考えるのが「常識」です。しかし、それは自分の足腰を信頼しているからでることです。それを親鸞は「自力」と言い当てました。自分の足を信じているのであれば自分の力で浄土を目指したらいいでしょうと。ただ自分の足を信じているということは阿弥陀さんにおまかせできていないことであります。「往生は弥陀に、はからわれまいせてすることなれば、わがはからいなるべからず。」(『歎異抄』第十六条)です。

(2)武田先生の講義の「道綽の「一金銭」の受け止めは、これから「発願」して、つり1円ずつ貯金して、「称名行」つまり、1万円を目指すものではない。我々は、もうでに、9,999円という「宿因」(貯金)を持って誕生してきたと考える。だから、この1を足せば1万円になる。この1円は、いま、ここで「往生」を成り立たせる1円(称名行なのだ」について

① 9,999円プラス1円で1万円になるなら、どうしても自分に何かを足す「自力」の発になってしまうように感じる。1万円を持って生まれたことを気づかせるのが念仏ではいか。
武田→ 「1円を足す」ことが「自力」ではないかという質問ですが、これは「南無」いうことを言おうとしたのです。蓮如的に言えば、「仏恩報謝の念仏」です。つまり、うすでに「9,999円」貯まっていることに気づいたことです。この「9,999円」とは、十の昔から私を養育し続けてきた阿弥陀さんの御苦労の譬えです。ですから、「1万円をって生まれたことを気づかせるのが念仏」という理解でもよいのではないでしょうか。の「1万円」に対して、「かたじけない」と頭を垂れるのが「南無」です。

② でも、お金の例えだと、1万円持っていてもそれに満足できず、2万円欲しくなるとえてしまう。
武田→ それは、「1万円」が阿弥陀さんの御苦労だと思えないからです。これは欲望の界の譬えではありません。

③ 1万円が大事だと思っていたが、石ころの方が価値がある、という転換の方が面白いではないか。
武田→ これは、人間の価値観を超えるということを言おうとしているのでしょうか。「石が、そこに転がってあるということは、全宇宙的な出来事です。「石」がなぜそこにあのか。それは誰かが運んだものか、どこの山にあったものか、その石は火山から生み出れたものか。こうなってくると地球の誕生物語にまでつながってきます。この壮大な背をもって、たった一つの「石」はそこにあるのです。さらにその「石」は、実は自分自と同じ構造なのです。こういうことを「面白い」と仰っているのでしょうか。

④ あるいは、もともと0円で、その0円に満足させるのが念仏か。
武田→ 「0円」を仏教的に言えば「空śūnya」とか「無一物」ですね。「もともと『空であり、『空』に満足させるのが念仏」と言い換えられそうですね。「0」にどんなに大な数を掛けても0とは、「色即是空」でしょう。これは「否定の空」です。この「否定空」をくぐって現れるのが「空即是色」です。これは「包摂の空」です。0の中に何をれても、すべてを飲み込む0です。0があって、初めて数が成り立つ「包摂の空」ですこれは、南無阿弥陀仏から生まれて来る「空」の理解です。

⑤ 先生は「9,999円という「宿因」(貯金)を持って誕生してきた」と言われている。9,99円という宿業を背負って、すでに私がここにいる。そこに1円というお念仏との出会において、往生が成り立つということではないか。
武田→ 仰るとおりです。しかし、この「往生が成り立つ」というときの「成り立つ」どう考えるかが問題です。
 まあこの「9,999円という「宿因」(貯金)」とは、自分が積んできたというよりも、弥陀さんの養育であったのかと受け止める貯金でしょう。この受け止めが人生全体を、弥陀さんの一人ばたらきであったのかと感動的に受け止められる根拠です。この受け止が成り立てば、後のことは、すべて阿弥陀さんの言いなりになるという世界に変わります私がいま、ここでこうしていることも、すべて阿弥陀さんの言いなりになっているだけす。そこには少しも「自分」というものが混じっていません。「自分」という「思い」ら自分のものではないからです。「自分」と思わせるのも阿弥陀さんの一人ばたらきですこれが「絶対他力」です。
 前に引用した、「往生は弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからなるべからず。」(『歎異抄』第十六条)は、「絶対他力」の文脈で語られているのです。れは、「死んで地獄へ往くのか、浄土に往くのか」、そんな問題関心から完全に解脱したとを言っているのです。「地獄も浄土も」ともに、人間が生み出した他界観念に過ぎまん。それをともに幻想だと受け取ることです。それが「弥陀に、はからわれまいらせてです。つまり、これを煎じ詰めれば、「〈真・宗〉は『死なない』宗教」へ行き着きます「死」は、人間にとって観念に過ぎません。この「死」という観念を阿弥陀さんによっ綺麗さっぱりと削ぎ落としてもらえるのです。
 まあ人間も生物ですから、他の生き物のように肉体の生命も寿命があって、活動を停するときがやってきます。だから、「死」はあるじゃないかと反論されそうです。「死」あるけれども、それを「観念」だと言っているだけじゃないかと。そういう反論は当然り得ます。しかし、その反論は、「死」が観念であると、まだ綺麗さっぱりとは削ぎ落されていないのです。「檀林皇后」の「九相図」がありますね。美女が亡くなり野に置れ、やがて腐敗し、蛆が湧き、キツネなどに喰われ、最後は白骨となる九枚の絵図ですこれは欲望を断ち切れという「断煩悩」の文脈で描かれています。しかし、これは生命事実です。ただ人間は、それを「死」という観念の中に投げ入れて、「既知(きち)」のこととて済ませます。ここに楔を打ち、揺さぶるのが「〈真・宗〉は『死なない』宗教」です。