娑婆が圧縮されたら浄土と接する

いつでも、どこにいても、それに気付くと、気付いた途端に、一気に「十劫」の昔に連れ戻される。朝、トイレでウンコが出た。ウンコをするのではない。ウンコが生まれたのだ。自分がしたくてしていることではない。そうせずにおれずに、そうしているだけだ。このウンコは自分の誕生の構造と同じだった。
 それに気付くと、自分は一気に「十劫」の昔に連れ戻される。このウンコが出るための背景に思いが行けば、何十億年のいのちの旅を経て、いまようやく現れてきたものだからだ。
 いつでも、どこにいても、それに気付けば、一気に「十劫の昔」が出現する。私は、「十劫の昔」の上を、辛うじて漂っているだけなのかも知れない。
 まあ、そんなふうに受け止めるのも「人間ならでは」のことなのだろう。阿弥陀さんとは、まったく無関係のことなのだ。「人間」には「人間程度のこと」しか感じられないから、「人間内的」なことを述べているに過ぎない。阿弥陀さんには、少しも触れてはいないのだ。そもそも「阿弥陀さん」という言葉そのものが、そういう言葉だ。「阿弥陀」は「阿=無」であり、「弥陀=量」の意味であり、「無量」と訳される。つまり、「量れ無ない」だ。人間の知では量ることが出来ないという意味だから、本来、「分からない」という意味なのだ。この「分からない」ものを、仮に「阿弥陀」と、人間が、人間的に名づけているだけのことだ。
 だから、大矛盾だ。本来、人間に分からないものを、いかにも分かったふうにして「阿弥陀さん」などと呑気に使っていること自体、大変な罪を犯していることだ。だから、南無阿弥陀仏などと、呑気に口にしていること自体、大罪を犯していると自覚しなくてはならない。
 これも何度も書いてきたことだが、「分からない」ということも、人間的に「分からない」という言葉を使う場合と、それを超えて「分からない」という言葉を使う場合は、意味が違う。
 人間的な「分かる、分からない」は、知の世界のことだが、これを超えた「分からない」は、無分別智から生まれた「分からない」なのだ。人間的な「分からない」は鬱屈と無念という「恨み」を生むが、無分別智が感じる「分からない」は開放と明るさをもたらす「救い」を生む。これも「無分別智」などと語ること自体、大罪を犯している。もともと分別しかできない人間が、なぜ「無分別智」などと使えるのか。それこそナンセンスじゃないか。
 ただ、「分からない」という言葉を耳にしたとき、その言葉に不満を感じるか、それとも、「ごもっとも」と、心底、頷くかの違いだけなのだ。もし不満を感じれば、それはまだあなたが「知」にしがみついていることの証である。「知」を頼りとしているということは、薄氷の上を歩いているようなものだ。薄氷の下には、「四苦八苦」が口を開けている。だから、そこへ落ちまい落ちまいと不安を感じながら怯えているのが「知」だ。
 無分別智の「分からない」は、その薄氷が割れてしまい、「四苦八苦」の深海へ、ドボンと落ちてしまった状態から生まれる。それは「苦」で留まらず、もっと深い海の底へ落ちていく。そうすると、「苦」を生むものが、貪欲という詐欺師であったことが見つかる。貪欲が「苦」を生む正体なのだ。厳密に言えば、「痛みは身に棲み、悲しみはこころに棲む」である。「苦」と言っても、肉体的なものと精神的なものがあるという意味だ。〈真・宗〉は、肉体的な苦は消せないが、精神的な苦は消すことができる。苦を消すというと大げさだ。親鸞は「軽微」(「現世利益和讃」)なものになると言っている。
 人間は「分かりたい」生き物だ。だから、「分かろう」とする。しかし、どこまで「分かった」としても、知で「分かった」程度のことだから、必ず不満が残る。知は「分かりたい」としか動かない。だが、一度「分かって」しまったものに対して興味を感じなくなる。もうそれ以上、「分かりたい」とは動かない。これは「知識」ばかりでなく、「物」もそうだろう。欲しい欲しいと思っていた物も、一度手に入れてしまえば魅力を失う。孫の「おねだり」を見ていれば、人間にとっての欲望とは何かが教えられる。手に入れるまでは、泣いて叫んで欲しがる。しかし、一旦それが手に入れば、もはや、そんな物の魅力は失せてしまい、捨て置かれる。
 阿弥陀さんはご存じなのだ。人間は「知的」に満足したとしても、それで根源的に満足する生き物ではないことを。だから、敢えて「分からない」ということを、人間へのプレゼントとしたのだ。まことに念の入ったお手回しだ。
 人間は、「舐めても溶けない甘露の飴」が欲しいのだ。まあ、これも矛盾した表現だ。人間が甘みを感じるときには、必ず飴は溶け出しているのだから。甘みを感じない飴は、この世に存在しない。しかし、そうとでも表現しなければ済まないものを感じているだけだ。
「分別知」は「無分別智」を求めている。いままで「分別知」が常態であったものが、逆転し、「無分別智」が常態になればよい。つまり、「浄土」の中に娑婆が包まれてしまえばよいのだ。妻との別れを経験してから、娑婆が、一気に小さな物として圧縮されてしまった。いままで広大だった娑婆が、ミクロサイズに圧縮されてしまった。ミクロサイズに圧縮されてみたら、その向こう側に浄土が接触した。浄土に包まれてしまった。「浄土」とは、別名、「無量光明土」だから、これまた人間には、根源的に「分からない世界」という意味だ。これこそ「無分別智」の世界だ。
 そこは「時間」もなく、「空間」もない。つまり「人間」に死んだ世界だ。「人間的世界」が死に絶えたところなのだ。
 人間は、根源的に「分からない」世界との出遇いで、初めて「満足」する。これが阿弥陀さんが与える御利益だったとは。