「自力の時間論」・「他力の時間論」

 師に「どうしたら信心が得られるのですか?」と問うたとき、師は「何もせんでええんです」と答えられた。
 これ以外に、絶対他力からの答え方があるはずはない。もうすでに「絶対他力」の中に生きているのにも関わらず、それを不服とし、固定観念で作り上げた「信心」とやらが欲しいなど、まったくの贅沢を言う。
 まあ、そのように気付くのは、それからずいぶん経ってからだった。その時は、「何もせんでええんです」と言われても、どうしたらよいのかが分からず、途方に暮れた思いだった。
「もうすでに」、私にまで届いているだ。「もうすでにして」、「信心」の中を生きているのに、それが見えない。それに気付かずにいるのは、持ちすぎていたのだ。持ちすぎていたから、見えないのだ。何かが足りなくて気付けないのではなく、持ちすぎていた。それが「自力」という発想だ。「自力」を持ちすぎていたのだ。「自力」が、何かが足りない、どこかが臭い、その臭いの発生源はどこかと捜そうとする。この「自力」が迷わせる。「自力」を持ちすぎているから、何かが足りない、「信心」が足りないと駄々をこねる。
「自力」は未来に、そのうち何とかなると妄想する。未来になれば、必ず「信心」が手に入ると。未来に何かを期待するということは、過去を、そして〈いま〉を拒否していることの裏返しだ。過去はダメなのだ。〈いま〉ではダメなのだ。未来しか好ましくないのだ。
 こういう「時間論」が底辺にあって、未来志向になっていた。この未来志向が「時間論」から生まれるものであり、この「時間論」がひっくり返ることを「回心」と呼ぶのだ。未来志向の「時間論」を、仮に「自力の時間論」と呼ぶことにする。それに対して「回心」の「時間論」を「他力の時間論」と呼んでおこう。
「他力の時間論」は、未来などは幻想だという「時間論」だ。「他力の時間論」は、流れることがなく、流れがないのだから、言わば、いつでも〈いま〉という「時間」に満たされる。
 たとえば、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。」(『歎異抄』第12条)という表現を見たとき、Aを信じ、それからBをすれば、C仏になるという表現形式になる。まあ「文章」という表現方法は、必ず「線状性」を免れないので、こういう形式を取る。しかし、これはあくまで他者に説明するための形式論理であり、ほんとうのことは、時が一つでなければならない。つまり、ほんとうのことは一つの出来事なのだが、それをひとに説明するために「線状」に文字を並べて表現しているのだ。
「自力の時間論」は、線状表現を時間経過として間違って受け取ってしまう。Aを信じBをして、結果としてCという状態を得ることができると。これがまさに、師から「何もせんでええんです」と言われて途方に暮れた「時間論」だ。
 私は、「昔は分からなかったが、いまになってみて、ようやくそのことが分かるようになった」などという表現を聞くと、訝しく思ったものだ。何だか経験論者のように、若いときは分からないけれども歳が行けば分かるようになるのだと言われているようで、傲慢きわまりないと忌避した。だから、私もできるだけ、そういう表現を避けてきたように思う。まあ完全には拒否できず、傲慢の煩悩にそそのかされて、そういう虚言を述べたこともあった。
 本当は求道に「時間」などあってはダメなのだ。信仰は、つねに〈いま〉のことだから。「やがて」、などという呑気なことを言っていてはダメなのだ。そうに違いないし、それは本当のことであり、そうに違いないのだ。だが、たとえそうであったとしても、やはり、人間には「時間」という幻想も必要なのだろう。幻想も幻想という、大切な役目があるのだろう。
「他力の時間論」は、つねに〈いま〉であり、永遠に〈いま〉である。もう「絶対他力」の中以外を生きてはいないのだ。それを拒否するのが「自力の時間論」である。来たるべき未来に何事かを期待する発想は、貪欲が生み出した幻想なのだ。そんなものは、「信心」でも何でもない。未来に何事かを期待するということは、〈いま〉を拒否する態度だ。
「回心」とは「時間論」の転換なのだ。流れる時間という幻想が破られ、いつでも〈いま〉という時間が開かれている。人間は、「本来的」に、「他力の時間論」の中しか生きてこなかったし、生きていないし、生きられないのだ。これが「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」(『浄土和讃』)の〈いま〉という「時間論」なのだ。