「無条件の救い」とは、何も変わらないということだ。一点一画も状況を変えず、何も変わらない。だが、それがそのまま、すべてがまったく変わってしまったこととして受け取れたという意味だ。何も状況が変わっていないのに、しかし、すべてが以前とはまったく変わってしまったという。これは、まったくの矛盾だ。ただ、〈真実〉を語るには、必ず矛盾した表現を採らざるを得ない。矛盾のないような表現は宗教表現ではない。矛盾がないような表現は、「常識」という飼い慣らされた知の領域にあり、驚きを生まない。
それはともかく、親鸞が見ていたであろう「救い」とは、その「無条件の救い」である。「無条件の救い」と聞くと、実に有り難いように思える。何も条件を変えずに、いますぐ、このまま救ってくれるというのだから。
親鸞も、こう言う。「おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず」(『教行信証』信巻)と。これは実に有り難い。生まれや性別や年齢、罪のあるなし、修行の年数など、これらを条件とはしないのだから、これほど有り難い救いはないはずだ。
有り難いはずなのに、よくよく考えてみると、「無条件の救い」など、「救い」とは感じられない自分もいる。何も変えず、何もせず、そのままで「救われる」などとは、そんなものを「救い」とは感じられない。だから、どうしても何かをやらねばならないと思い、状況を変えることで「救い」を得ようと考えてしてしまう。
そんな態度に対して、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」と『歎異抄』は批判する。まあこれはもともと『唯信鈔』(聖覚法印)の言葉である。
阿弥陀さんの救いの力がどれほどのものだと邪推して、自分のような罪業の身では救われないと考えているのかという批判である。
何かをやらなければ、状況を変えなければと思ってあれこれしようとするのは、端から、阿弥陀さんの救済力をバカにしているではないかというのだ。阿弥陀さんは、罪のあるなしや、修行の年数も、性別も、あらゆる条件を問わないのに、どうしても条件をつけたくなる自分が残る。つまり、阿弥陀さんの救済力など大したことはないのだ、自分でとにかく何かやらなければ、救われるはずがないと邪推しているのだ。
何もしないで救われるなどとは信じられない。阿弥陀さんの救済力は確かに凄い。だって「無条件の救い」を誓われているのだから。けれども、まったく丸投げで誓いに甘えるのは申し訳ない。またそんなうまい話は転がっていないし、自分でもいくらかの努力をしなければ、阿弥陀さんに対して申し訳ない。何もしないで救われるなどとは、虫がよすぎる。自分でも努力して、努力が尽きたときに阿弥陀さんは救ってくれるのだから、端からおまかせなどという態度は、怠慢な発想だ。こうやって邪推してしまうのだ。
やはり、人間は、阿弥陀さんを「人間程度のもの」として考えてしまうのだ。まさに「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか」と批判が浴びせられて当然だ。
しかし、そうは言われても、自分には何かが足りない、何かをしなければと思ってしまうのもやむを得ないことだろう。人間は植物ではなく、動物だから、「doing(~する)」という関心から逃れることができない。この「doing(~する)」という関心が役に立たなくなることを「自力無効(自力無功)」という。だが、どうして「自力無効」が成り立つのかは分からない。それは人間には知らされていない。
「doing(~する)」という関心は、ハウツーHow toの知で成り立っている。「どのようにしたら?」という発想法だ。つまり、どこまで行っても、「どのようにしたら?」ら「自力無効」が成り立ちますか?と問うてしまう。この発想法そのものが「自力」、つまり「doing(~する)」関心なのだから、「自力」から逃れることはできない。
ただ人間には、そのカラクリは知らされていないのだけれども、確かに、「自力無効」と知らされる現象が起こる。親鸞も、それには戸惑ったことだろうけれども、そのカラクリがなぜ起こるのかは書かれていない。いままで「自力」の風が吹いていたものが、一気に「他力」からの流れに変えられてしまう。北風だった風向が、一気に南風に変わってしまうのだ。
それを親鸞は、「ここをもって(是以)」という一語でしか述べていない。また述べられないのだろう。それで、こう述べている。
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。(略)如来の至心を以て、諸有の一切煩悩・悪業邪智の群生海に回施したまえり。」(『教行信証』信巻)と。
前半は、衆生には真実の心などはないのだと、徹底して「自力無効」を表現する。ところが、「ここをもって(是以)」という接続句で、いままでの風向きが一気に変わる。「ここをもって(是以)」の後は、それだから如来は衆生を哀れんで、どのようにこの真実を伝えようかと悪戦苦闘し、とうとう如来は真実の心を我々に恵んでくれたのだ、と言っている。結論として、「如来の至心」がどのように、衆生に「回施」されるのかというカラクリについては一切触れていない。
これは人間の努力や心掛けという次元とは一切無関係の場所から「回施」されているからだろう。いままで北から強烈に吹き付けていた北風が、一気に南風に変わってしまったと言っているようなものだ。南風に変わってしまえば、すべてが「絶対他力」に変化してしまうし、それこそが〈真実〉だと説得される。
そこには、「自分」という実体も、「自分」という我執も、すべてが解体されてしまい、雲散霧消する。「主語としての自分」が解体され、「述語としての自分」しかなくなってしまう。自分があって、その自分が考えているのではない。何かに考えさせられて、自分が考えているのだ。まず「考え」のほうが先にある。その後から「自分」という思いがやってくる。だから、「考え」の主体は「自分」ではない。「自分」は雲散霧消されている。「自分」は、いつでも、この「考え」の後を着いていくだけだ。
朝、布団の中で目が覚めるのも「絶対他力」、そして、自分がこの世に誕生させられたのも「絶対他力」。能動という北風が一気に変化し、南風という受動に変わる。
話を元に戻そう。初めに書いた「無条件の救い」とは、「自力無効」の場所でつねに起こっている出来事なのだろう。「自力無効」は、一過性のことではない。いつでも、どこでも起こっている出来事でなければならない。人間は「条件的救い」しか「救い」として感じられないから、そのように感じられない場所であっても、つねに起こっていなければならない。だから、北風が一気に南風に変わってしまったと「過去形」で語ることのできない出来事だ。その風向きが変化し続ける場所、その場所こそが、「無条件の救い」が実現される場所なのだ。「過去形」がつねに奪われる場所。そこが「無条件の救い」が現成する場所なのだ。
人間は、つねに「これから、これから」と「doing(~する)」に執らわれているけれども、阿弥陀さんはそれに対して、つねに「すでにし、すでにして」と応答される。「条件」を要求する人間に向かって、いつでも「無条件の救い」を与え続けている。