称えられる直前の「南無阿弥陀仏」が〈真実〉の「南無阿弥陀仏」である。人間が見たり、称えたり、書いたり、思ったときには、それはすべて不実の「南無阿弥陀仏」になってしまう。これほど新鮮なものなのだ。
声明で称える「南無阿弥陀仏」も、言葉として発声されてしまえば、発声された途端に不実の「南無阿弥陀仏」に変貌する。人間には、不実の「南無阿弥陀仏」以外を発することはできない。
法然も、そう思って一日に七万遍もの「南無阿弥陀仏」を称えていたのかも知れない。だから、いくら称えても〈真実〉の「南無阿弥陀仏」にはならなかったのだろう。それで七万遍、いや百万遍と日課にしようとしていたのかも知れない。まあ、これはあくまでも、かも知れないという程度のことである。
親鸞は、もはや「南無阿弥陀仏」を称えることを日課にしようという意識すら消えている。そもそも〈真実〉の「南無阿弥陀仏」は口で称えたり思ったりすることはできないと、端からあきらめているからだ。〈真実〉の「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さんの領域にある言葉だから、不実の自分には称えることも、語ることも、思うこともできないと覚めている。
これが〈真実〉という領域との「正しい関係」の構築である。言うまでもないことだが、この〈真実〉という言葉も、「南無阿弥陀仏」と同じことだ。〈真実〉という言葉があっても、これは人間の領域にある〈真実〉だから、本当は不実である。〈真実〉という言葉を使ってはいても、それは人間の頭の中に引き起こされるいかなる〈真実〉の意味をも示してはいない。
ところが、もう自動的にというか、間髪を入れずに、〈真実〉という言葉を目にすれば、人間の頭の中には、〈真実〉という言葉の意味が一瞬のうちに浮かび上がってしまう。だから、よほど注意しておかねばならない。
そもそも、「文字」と「意味」は別々の次元にあるのだが、人間という生物は、それを峻別できないほどに一体化させてしまった。それは仕方がないことだ。丸山圭三郎が言うように、言葉は「存在」を喚起してしまう作用だからだ。丁寧に言えば、その存在とは「意味」と言い換えてもよい。我々にとっての「存在」とは「意味=存在」なのだ。
丸山は、言葉を「荒ぶる神」と呼んだ。言葉は人間を手玉に取るほどに権力をもっている。どういう権力か。それは自分を「レッテル」であるかのように偽装し、本当の姿を隠し、人間を言葉に跪かせることである。この偽装を見破れないと、言葉の支配下に下ることとなる。言葉の第一義的作用は、「レッテル」、つまり記号ではない。それは二義的な作用なのだ。大人と呼ばれる人間たちは、第二義的な作用だけが言葉だと見くびっている。だから、言葉の偽装に騙され、言葉の奴隷になっている。
我々が子どもの頃は、まだ「言葉」と「意味」が密着していない。少しずつ密着させることで、子どもは「世界」を手に入れ、「存在」を手に入れた。リンゴを見た幼児は、未知なる存在を目の前にして不思議がる。そして手を伸ばしてリンゴを取ろうとする。もしそれが熱せられ赤々と焼かれた鉄球であっても、同じように手を伸ばすだろう。彼にとっては、赤い球は好奇心をくすぐる。大人がそれを見ていれば、咄嗟に幼児の手を引っ込めさせる。万が一、鉄球に触れれば大やけどを負うことが分かっているからだ。
幼児にとって「世界」は、まだ「世界」として成立していないので、危険は皆無だ。これを敷衍すれば、リンゴと鉄球を見分ける力を得たことが大人になったということになる。
リンゴを見た幼児は、手に取ってもやけどをしないことを覚え、「リンゴという言葉」と「リンゴという意味」が密着する。だから、リンゴという言葉を得る以前には、リンゴは得体の知れない何ものかでしかない。しかし、一度、リンゴという対象にリンゴという言葉が密着すれば、それはリンゴという存在として彼との関係ができあがる。これが世界喚起の第一歩となる。この段階になれば、リンゴという言葉を聞いただけで、頭の中には「リンゴ」がイメージできてしまう。そんなリンゴは頭の中だけにあるリンゴであり、現実には決して存在しないリンゴであることを忘れさせる。
言葉の第一義的作用とは、言葉が世界、つまり存在を呼び起こしてしまう作用である。この作用によって、何十万回も何百万回も「言葉」と「意味」を密着させてきたのだから、〈真実〉という言葉を見れば、大人の頭の中には、一瞬にして、そのひとだけが感じる「〈真実〉という意味」が浮かび上がってしまう。それは言葉の存在喚起機能が浮かび上がらせた幻影なのだ。幻影なのだが、それが幻影として、言葉はそれを偽装し、決して見破らせまいとする。あたかも私には何の作為もありませんよ、私は人間様の忠実な「レッテル」という僕ですよというような顔をして。だから、言葉は「荒ぶる神」なのだ。
初めから荒ぶっていれば、ひとはそんな危ないものには近づかない。ただ、言葉は表面上、荒ぶってはいないのだ。あたかも人畜無害のような穏やか顔をして、ひとに近づき、彼にまとわりつき、骨抜きにし自分の下僕にしようとする。だから骨抜きにされた人間は、まさか言葉によって下僕にされているなどとは、露ほども思ってはいないのだ。それほど、巧みな手を使って人間を支配するのだから、やはり、言葉は巧妙な「荒ぶる神」なのだ。
話を戻せば、〈真実〉という言葉を見ても、〈真実〉という意味が分かってはダメなのだ。〈真実〉という言葉の正しい意味は、人間の、あなたの頭の中に喚起された如何なる意味にも還元できないことだからだ。ここまで注意しておかないと、「言葉」と「意味」とが別々の世界にあることが見抜けない。
ここまで散々書いて置きながら、それではお前は、〈真実〉という言葉に万分の一でも意味を感じないのかと問われれば、ノーとは言えない。やはり、〈真実〉とは「人間のこころには一切、入ることのないもの」という意味で受け取っているからだ。やはり、「言葉」と「意味」とが密着してしまっている。ただ、「言葉」と「意味」とが密着してしまうのだが、その隙間に楔の撃たれていることも間違いないことである。
「南無阿弥陀仏」という言葉を見た途端に、何事かの意味を、そこに感じ取ってしまう。間髪を入れずに、感じ取ってしまう。一瞬にして感じ取らせるものが、言葉の存在喚起機能という魔力だ。そこから、逃れることができない。逃れることができなのだが、逃れようとしていることだけは確かだ。
そんなことを思いながらも、今朝のお朝事では、「南無阿弥陀仏」を大声で発声している。これがまた気持ちがよい。だって、いくら「南無阿弥陀仏」と発声しようとも、それは〈真実〉でないことが重々分かっているから。不実の「南無阿弥陀仏」だから。もし、〈真実〉に万分の一でも触れていたなら、これは実に恐ろしいことになる。
なぜ恐ろしいことになるのか。それは砂上に楼閣を作るようなものだからだ。「諸行無常、諸法無我」なのに、それを固定化し固めようとすることは、所詮できないことだ。そんな無謀な作為は初めからあきらめておいたほうがよい。
自分に〈真実〉がないということが、これほどまでに自分を軽やかにしてくれるものなのか。〈真実〉は、すべて阿弥陀さんにあずけてしまい、自分は軽くなっている。