〈真・宗〉は、明日を持たず、明日を期待せず、明日を必要としない。だから〈永遠〉なるところに突き抜けられる。
こう表現してみると、〈真・宗〉の一部分を確かに言い当てた感じがする。一部分だから、全体を表現していないことは承知の上だ。
「真宗の信心の世界を知りたいのですが、どうしたらよいですか」と聞かれるひとは、「明日」を期待している。いまは分からないけれども、やがて来たるべき未来には分かるだろうと考える。まあ、苦し紛れで、「仏法を聴聞し、聞法を続けていくしかありませんね」などと応える私もいる。それは、その場しのぎであり、苦肉の策だと重々分かっていて、とても申し訳ない答え方になってしまっていると、内心忸怩たる思いを持ちながらの応答だ。
なぜならば、その答え方が、〈真・宗〉とズレてしまっているからだ。〈真・宗〉は「明日」を必要としない教えだからだ。「明日」に期待を持たせるような答え方をしたことを深く恥じている。しかし、素面に戻ってみれば、人間には、そんな答え方しかできないものなのだ、とも思える。
イエスも「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。」(マタイ書7-7)などと「明日」に期待をもたせる言い方をしている。でも、イエスも内心で、それではダメなのだと気付いているはずだ。〈いま〉死ねるものでなければ、即刻の問題には役に立たないことくらいは。
こうなると、「〈真・宗〉は、明日を持たず、明日を期待せず、明日を必要としない」などということは、人間が人間に向かって言えることではないのだろう。それはあくまで、阿弥陀さんから、〈絶界の一人〉のみが受け取ることのできるメッセージなのだろう。
阿弥陀さんからもたらされる、ドロドロの濃い〈真実〉のエッセンスは、〈絶界の一人〉のみが味わうことのできる至福なのだろう。
〈いま〉がすべてであり、〈いま〉以外を生きられず、〈いま〉に死す。もう死んでいるのだ。その死んだところからのお余りで、かそけき〈いま〉を呼吸する。