インポッシブルがサンキューに変わる場所

「地獄と極楽」を超えたものが「浄土」である。このように、一応と言うか、渋々だが、「浄土」を定義してみた。「地獄と極楽」は、欲が作り出した幻想である。もし欲が貪る対象であるのなら、「浄土」と言ったとしても欲界の内部のことになってしまう。
 だから、欲界を超え離れた場所という意味で「浄土」を定義してみた。いま、私の妻がいる場所のことである。どれほど、妻の往った世界を思ってみても、それは欲界の内部のことを出ない。だから、どれほど思っても、思いは通じない。
 この通じないということが、欲界を超えさせる。通じないということは、「有ること難し」である。これはインポッシブルという意味だ。だが、「有ること難し」は、そのまま「有り難い」に転ずる。「有り難い」はサンキューだから、インポッシブルが、サンキューに変わってしまう。
 インポッシブルがサンキューに変わる世界が「浄土」だ。
 この「有り難し」は何と素晴らしい両義的な言葉だろうか。私の大好きな親鸞の和讃、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」が、その両義性を、実に見事に表している。
 親鸞は、この和讃を八十五歳のときに書いたらしい。つまり、二十九歳の頃、法然に遇って「本願に帰した」つもりでいたけれども、五十六年間の求道生活を通しても「真実の心」になることは不可能だったと述べている。これは人間の世界で解釈すれば、大いなる無駄、骨折り損のくたびれもうけということになる。大挫折だ。
 ここに人間がどれほど苦労して求めたとしても、一つも「真実の心」になどなれるわけがないとインポッシブルの側面が表明されている。
 しかし、それは半面のことで、その裏面には、決して「真実の心」になれなかったことをサンキューと感謝している親鸞がいる。もし人間に「真実の心」が少しでも成り立ってしまったら、必ず傲慢になる。もし百分の一でも、そう感じたら、本人がどれほど謙虚に振る舞おうとも、その深奥には傲慢がこびりついている。親鸞という男は、このこびりつきを決して見逃さない。一%でも、そう感じたなら、それは「虚仮不実」だと見抜いてしまう。
 それは自分を内省して、「虚仮不実」だと述べているのではない。「虚仮不実」と訴えてくるものからの訴えだ。それは自分の外部からの訴えだ。その外部を擬人化して「阿弥陀さん」などと言っている。つまり、「真実の心はありがたし」という訴えは、外部の声であり、阿弥陀さんとの出遇いがもたらした表白となる。これが人間が仏と出遇う場面の出来事である。
 やはり、阿弥陀さんとの出会いとは、阿弥陀さんに背を向けることなのだ。仏に遇うとは、対面ではない、対面で仏にあったら、強烈な逆光で目がくらんでしまう。そこで背を向ける。だから、阿弥陀さんを目で見ることも、思うこともできない。
 背を向けることで、背中に阿弥陀を感じるのだ。背中からひかりが当てられれば、自分の見ている世界(光景)は、すべて阿弥陀さんのひかりによって浮かび上がった世界へ変身する。
 水平線に沈む真っ赤な太陽。それを直視すれば、眩しすぎる。そこで背を向けてみよう。背を向けてみれば、夕日が照らす景色が、仄かに赤く輝いているではないか。何年か前、熊本の天草を妻と訪ねたときの光景だ。
 背を向けることは、直視できないのだから、少し悲しい。でも背を向けることで目に映った景色は、夕焼けに照らされたオレンジ色の世界になった。これが「浄土」の光景なのだろう。
 妻のいる世界と私のいる世界は、隔絶している。それが悲しみではなく、喜びに変わった。今日も、七十歳の女性の葬儀があった。そして私は、彼女が入れられた火葬炉の前で思った。遺族の悲しみは、当然であり、この感情は尊いものだ。しかし、もはや彼女はそこにいないのだ。遺族の「思い」の中にはいないのだ。
 絶対の隔絶があれば、彼女を、その「思い」の世界から解放してあげられる。「極楽と浄土」を超えた世界へ手放すことができる。そこは、「時間」のない世界だから。いつでも、どこでも出会える場所であり、またそんな世界を必要としない透明な世界なのである。
インポッシブルがサンキューに変化するなど、とてもこの世のこととは思えない。