〈真・宗〉は「明日」を持たない宗教

〈真・宗〉は、明日を期待しない宗教だ。いやいや、〈真・宗〉という言葉を使ってしまった段階で、もはやダメなんだ。もう〈真・宗〉という言葉自体にたくさんの手垢がついているから。もはや、〈真・宗〉という言葉も使いたくない。
 それでも〈真・宗〉という言葉を渋々使っている。それしか、取りあえず、それを示すことのできる言葉がないからだ。やむを得ず、〈真・宗〉という用語を使わざるを得ない。 その〈真・宗〉は、明日を期待していない。だから、今日だけ、〈いま〉だけにすべての焦点をもっている言葉だ。それでなければ、余命宣告をされて、明日をも知れぬいのちを生きている人間の救いには、まったく役に立たない。
 明日を、そして未来に何事かの期待を忍ばせていれば、それは役に立たないものだ。
 今日だけ、いまだけにすべてがなければならない。親鸞は、「現生正定聚」などと言って、未来に何事かを期待しているように見せかけて、あれは、未来に寸分の期待も希望も企んではいないのだ。あれは、〈いま〉だけ今日だけにすべてがあるということの表明なのだ。
 ただ、人間の〈いま〉は、必ず過去に飲み込まれてしまうので、飲み込まれませんよという意味で使っているに過ぎない。だから、〈いま〉にすべてがあるという表明なのだ。
 孔子じゃないけれど、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というようなものが、〈真・宗〉なのだ。だから、〈いま〉以外に何かを来したら、それは〈真・宗〉ではない。
この〈いま〉という一点に全てが収斂していく。
 また、〈いま〉以外を人間は生きたことがないので、それが人間の「本来性」なのだ。
 明日には死んでいるというのが、人間の事実なのだ。だから、明日に、未来に何事かを期待するような宗教は信用できない。「思い」は幻想を懐くが、「事実」は明日に終わっているのだ。
 その終わったところから、「万劫の初事」が奇跡として展開していくだけだ。