正嘉の飢饉(1258年)のとき、親鸞は「なによりも、こぞことし(去年今年)、老少男女おおくのひとびと死に合いて候らんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしましてそうろううえは、おどろき思し召すべからずそうろう。」(末燈鈔・真宗聖典603)と記している。つまり、たくさんの人々が飢饉で亡くなったことは、本当に悲しいことだが、それは縁(条件)であって、この世に誕生したことが死の根本原因だとお釈迦さんが、大昔に言ってるではないか、だからいまさら驚くべきことではないのだという意味だ。この飢饉で親鸞の身内は亡くなったのだろうか。この「あわれにそうらえ」という言葉の中に、二人称の苦しみがあっただろうか。あるいは三人称の苦しみだけで語ったのだろうか。もしかしたら、その間の「2.5人称」の位相で語ったのかもしれない。
この「あわれにそうらえ」と「おどろき思し召すべからず」の間には、大きな深淵があるように思う。二人称の苦しみに喘いでいるひとにとって、「おどろき思し召すべからず」は強権的に外部からの、いわゆる「お説教」になってしまう。「いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細く」(歎異抄・第9条)感じるひとに同伴できない。親鸞自身も、本当は驚き悲しみたじろいでいてあってほしい。もしそれが抜けてしまえば、「凡夫」の救いとは無関係になってしまうではないか。驚き、悲しみ、たじろいでいる人間と共感できたとき、初めて「向こうから」、黎明の光のように、「おどろき思し召すべからず」が聞こえてくるのだろう。この言葉は、人間が人間に対して語ることを許さない言葉だ。ただ一つ、「聞き言葉」として、各人の内面にジワーッと広がってくる言葉ではないか。
いまコロナウイルスから問いかけられているのだ。人間の、そして全人類の「歴史」とはいったい何なのだと。「進歩」とか「発展」とか、「成仏」とか「繁栄」とか「平和」とか、様々に未来に向かって目標を立てているが、それらは究極的に何なのだと。
それを、それぞれが、静かに、尋ね考えることを要求されているのだろう。