「自分を中心に考えると乱れる。周りを中心に考えると整われる。」ふと、そんな観念が浮かんで来た。「自分を中心に考えると」、すべてのことに対して「何でこんなことを私がしなければらないのだ」、「何でこんな目に遭うのか」と暗澹たる気分になる。
孫に「ジュースが飲みたい」と要求されれば、一瞬、「何でこんなことを私がしなければならないのだ」という思いになり、「これも自分がやらなければならない仕事なのだ」と思い直すと、スッと身体が動いて、冷蔵庫にジュースを取りに行ける。
このほんの些細な、日常の一コマに、私の全生命の方向性が宿っている。そもそも、「自分」などという固定したモノは存在しないのだ。だから、その時、その場で、何を思い、どう行動したかということだけが、「自分」の残像として蓄積されているだけだ。
法話や講演をするときも、「聴衆のため」と思ったら汚れてしまう。もちろん「自分のため」でもない。無理矢理に理由を付ければ、「聴衆のため」であり、「自分のため」なのだが、それも違う。ただただ、私は阿弥陀さんを前にして、何事かを告白しているだけなのだ。告白だから、これは他者に向かってではなく、ひたすら阿弥陀さんだけに向かって独白しているのだ。ただ、嘘だけは言えないという厳しい決め事だけが、そこには厳然としてあるだけ。
嘘とは、自分の内面に感じていることなのに、そんなことは私はちっとも感じてはいませんよというふうに振る舞うことだ。私は煩悩の総合デパートだから、全人類の煩悩をすべて兼ね備えている。トランプ的なものもあれば、はたまたマザーテレサ的なものも、あらゆる人間性を内包している。鬼と慈母が混在しているのだ。だから、「自分」をどちらか一つに絞ることができない。
「自分を中心に考えない」という場合の「自分」とは、本来、「無我」であるはずなのに、それを「自分」だと錯覚している「自分」のことだ。無いものを在ると考える錯覚だ。
だから、「自分は我慢して、ひとを優先させる」という場合の、「自分」のことではない。だから、「汝の隣人を愛せよ」と言うイエスとも違う。
「自分を中心に考えない」というのは、その場で起こってきたことに対して、即座に応じることだ。いや、その場で、つまり人生のあらゆる場面で、その場に起こってきたことに、必死で対処してきたのが、自分の人生ではなかったか。自分の人生には「前例が無い」のだ。必ず、人生は「自分の思い」よりも先に始まっているので、事後処理以外に自分はやってこなかった。それであるのに、ついつい自分は、人生よりも先に「自分」があると錯覚してしまう。まあ「我執」だ。
いまNHKの「こころの時代」では、「ファンタジーに秘められた宗教」(シリーズ全六回)というテーマで、放映が始まっている。第二回目は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が題材だった。皆さんご存じの「蜘蛛の糸」は、「我執」がテーマだと言ってよい。普段は、いわゆる「平和時」は、お互い様と言い、いえいえあなたがお先にどうぞなどと言って暮らしているものが、緊急時になると、他人を押しのけて自分だけを優先してしまう「我執」の問題だ。
そして、この「我執」をいかに乗り越えるかというテーマで「宗教」というものが考えられてきた。仏教は、「我執」は煩悩が起こすものだから、この煩悩を辞去すればよいと考えた。しかし、どこまで除去しても「我執」はなくならなかった。むしろ「我執」をなくそうとすることすることそのことが「我執」のはたらきだと気づいてしまった。これに気づいてしまったら、もはや、仏教というシステムは解体されてしまう。
禅宗は、それに気づいてしまったから、「悟後の修行」などという言葉を生み出した。修行することが「我執」から出発していると気づいてしまったら、もはや修行をすることが出来なくなる。「我執」を除去するための動機が「菩提心」だと思っていたが、それは実は、「我執」だったと気づいたのだ。それが禅宗で言う「悟り」だろう。そこで一旦、修行という行為が死ぬ。死ななければ、「悟り」ではない。それが死んだ後は、「悟後の修行」をすると言う。それは、いままで悟りを求めていた修行ではなく、無目的の修行となる。むしろ、自分がする修行ではなく、自分がさせられている修行に変わる。「~する」という行為は変わらないのだが質が変わる。方向性が変わる。これから悟ろうとする修行ではなく、悟りから促されてきた修行となる。それが道元禅師が言う「只管打坐」だ。
ここまで来れば、親鸞の直観した「如来回向」と同質になる。「する」という意味場ではなく、「させられている」という意味場に世界が変わることだ。
つまり、「我執」を排除する方向性ではなく、「我執」を賜り物とする世界だ。「我執」を排除しようとするのは、そもそも「自分」というものがあると考えるからだ。「自分」というものがあって、その「自分」が「自分自身」に執着すると考える。ところが、本質は、「自分」などというものはないのだから、何が何に執着しているのか、そもそも分からないことになる。
この意味不明なことが、「唯識」では「末那識」と「阿頼耶識」の関係で論じられている。「末那識」とは、「無意識的な我執」のことで、これを引き起こしてくるのが、もっと深いところにある「阿頼耶識」だと考えた。だから、「我執」を引き起こしてくるものが「自分」だとは考えていない。つまり、それは自分でも気づくことができないほどに深いところからの促しだと考えた。
こうなると、自分が見たり聞いたりすることのすべてが「末那識」の世界となる。譬喩的に言えば、「我執」の汚れのない世界は、どこにもないことになる。親鸞の言葉で言えば、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)だ。「まことあることなき」とは、自分が生きている世界は「末那識」以外にはないと言っているのだ。それが「ただ念仏のみぞまこと」とは、「末那識」を引き起こしてくるのもが「阿頼耶識」からの促しだと覚めてしまったのだ。だから、「まことあることなき」には絶望感がない。シニカルな冷笑や、ニヒルな厭世観もまとわりつかない。
「末那識」を汚れとして感じている「自分」が解体され、「賜りし末那識」となったからだ。人生は自分の「思い」から出発していない。もやは手の施しようもないくらい以前から始まっていたのだ。