「共同幻想」という煩悩

「東京教報」という東京教区の官報がある。これの巻頭言を数年にわたって依頼されている。今号(190号)が2026年5月に発行されたので、ここに転載する。「共同幻想」とは吉本隆明用語であり、それを借用して展開してみた。 
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この間、面白いことを経験した。地下鉄のホームに運転士がいたので彼に、「電車の運転は、一日に何時間くらいするのですか?」と尋ねた。彼は「長いときには10時間ほど運転しますね。もちろん休憩は取りますけど。」と。私は「へぇー、ずいぶん長いんですね。しかし、よくあの停止線に停められますね。すごいです!本当にご苦労様です」と返した。彼は、温かそうな笑顔になった。やがて電車がホームへ入ってきて、私はしばらく電車に揺られていた。それから数駅を出たり停まったりして電車は進んで行った。すると面白い感覚になった。この加速と減速は、先ほど言葉を交わした彼が運転していたのだ。それはどの運転士が運転しても、だいたい同じだろうけれど、彼が運転しているのかと思ったら、この加速と減速に人間味を感じ、こころが温かくなった。もし彼と会話をしていなければ、この加速と減速は、それこそ「機械的」な、まさに無味乾燥なものであり、それこそ意識にも上らなかっただろう。そこに些細な会話があったお陰で、そこに「人間」を感じ取れた。
 このことから一気に、いま行なわれているイスラエル・アメリカによるイラン攻撃が頭に上ってきた。いまではあれが「戦争」と呼ばれているが、当初は、一方的な「攻撃」だった。いつ終わるとも分からない戦いに全世界がこころを痛めている。
 これは幼稚な考えだけれども、もし相手国に知り合いがいれば、戦いに傾くこころをいくらかでも制止する力がはたらくのではなかろうか。国とか民族とか宗教などという眼に見えない境界を作ってしまうから、生身の、一対一の人間が見えなくなるのだろう。国とか民族などは「共同幻想」だ。そのとき、中島みゆきは「ならば見知れ」と言う。
「見知らぬ人の笑顔も/見知らぬ人の暮らしも/失われても泣かないだろう/見知らぬ人のことならば/ままにならない日々の怒りを/物に当たる幼な児のように/物も人も同じに扱ってしまう/見知らぬ人のことならば/ならば見知れ/見知らぬ人の命を/思い知るまで見知れ/顔のない街の中で/顔のない国の中で/顔のない世界の中で」(「顔のない街の中で」2007年作品)
 でも、この「見知れ」は、「誰とでも隔てなく仲良くしなさい。嫌いなひとを作ってはいけません」という道徳訓ではない。辛淑玉は、こう述べている。
「でも私は(日本と韓国が)『仲良くしよう』と言うんじゃなくて、喧嘩をしない努力をすればいいと思うわけです。隣り近所の関係でも、『あいつ気に入らねえな』と腹の中で思っても、とりあえずニッコリ笑っておく。(略)無理して仲良くする必要はないと思っているんですね。」(永六輔との対談本『日本人対朝鮮人』光文社)
 好き嫌いは理屈ではなく感受性の問題だから、それを否定したら人間を否定することになる。だから好き嫌いが遠慮なく言える関係を温存しながら、それであっても関係性を保っておく。それには、まず好き嫌いを絶対視し、それに飲み込まれてしまう「自我」と「自分自身」とを棲み分けねばならない。「共同幻想」こそが煩悩だと、手に取るように、つねに見える眼を確保しなければならない。