この譬えは以前にも書いたものだが、改めてここに出してみる。師と弟子との問答である。弟子が師に向かって、「真宗の真髄は『このまま』だということがようやく分かりました」と言った。それに対して師が、「いやそれは違う。真宗の真髄は『そのまま』じゃ!」と応えた。これに対して弟子が、「そうでしたか、思い違いをしていました。『このまま』じゃなくて、『そのまま』だったのですね。ありがとうございます」と応じた。ところが、その発言に対しても、師は、「いやいや違う。『そのまま』じゃなくて、『このまま』じゃ!」と。
この「このまま」と「そのまま」の問答は永遠に続く可能性を持っている。ここで師の言う「このまま」と弟子の言う「このまま」は、同じように「肯定」の意味を示しているが、その質が異なっている。弟子は、自分の発言を師に肯定してもらいたいための「このまま」なのだ。だから、師は「このまま」でも「そのまま」でもよいのだ。師が弟子の何を見ているかと言えば、それは弟子が自分の発言を師に肯定して欲しいという煩悩なのだ。自分の発言を師に肯定してもらうことで、自分を自己肯定し、自己保身しようとする貪欲なのだ。
だから、弟子がいくら「このまま」か、「そのまま」かと師に向かって発言しても、師は決して、その自己肯定を認めはしないので、この否定は永遠に続く。よく、真宗以外では、「印可」ということがあると聞く。辞典を開くと、「印可」の解説に「印信許可」という項目があり、「師が弟子に許可を与えること。師が弟子に法を授けて、弟子が法を得、さとりを得たことを証明認可すること。おもに禅宗や密教での用語」と書かれている。ここに書かれているとおり、真宗にはないことだ。
もし、師が弟子を印可してしまえば、弟子の自己肯定感を認めることになってしまうからだ。師という権威者に認められることによって、弟子が自己を安堵しようとするのは、自己保身の煩悩の満足でしかない。だから、師は永遠に、弟子の自己肯定煩悩を満たすことはしない。もしそれを認めてしまえば、弟子の信仰的自律を阻害してしまうからだ。
それで『歎異抄』(第二条)で親鸞は、「このうえは、念仏を信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」と言われたのだろう。それこそいのち懸けで関東から京都にいる親鸞へ質問しにきた動機は、「自己肯定煩悩」以外にはない。言葉を換えれば、弟子たちは師・親鸞に「印可」してほしかったのだ。しかし、「印可」はしなかった。
念仏を信ずるも捨てるも、お前たち自身が決めることだと突っぱねた。もし、親鸞が「お前たちは何を動揺しているのだ。お前たちは、私の教えた信心をちゃんと心得ているじゃないか。安心して念仏しなさい」と答えていたらどうだろうか。そういう答え方も、当然、出来るはずだ。関東から来た弟子たちの、差し当たりの不安は取り除くことができるのだから。第二条には記されていないが、実際には、会話の中で、こういう答え方があったかも知れない。久しぶりに会ったのだから、門弟たちと思い出話に花を咲かせる場面もあったに違いない。たくさんの会話があった中で、それら多くの言葉は削ぎ落とされ、その中から唯円が聞き取った言葉だけが、辛うじてここに刻みつけられたのだろう。
唯円が第二条を認めようとしたとき、唯一、「耳の底」に残っていた言葉が、「面々の御はからい」だったのだろう。この言葉が残されたお陰で、信仰的自律が保たれた。
親鸞が「たとい、牛盗とはいわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるように振舞うべからず」(『改邪鈔』)と語った真意は、「自己肯定煩悩」こそが最も悪いということだ。自己を「仏法者」と自認して振る舞うということの深層には「自己肯定煩悩」が張り付いていることは間違いない。
これこそが信仰的自律を阻害するものだ。しかし、現代では、「自己肯定感」が大事だなどと主張されている。社会がそのひとを認めなくても、少なくとも自分は自分自身を肯定してあげなくてはならないと。自分なんか、この社会にとって何の役にも立っていないのだから、この世にいなくてもよいのだと卑下しているひとに向かって、そういうように慰めるのだそうだ。
カウンセリングの場面では、そういうことも大事かと思われる。しかし、まあ根本治療としては、「この世」とか「社会」などというものは「共同幻想」であって、自分の生み出している「観念」に過ぎないと見切ることだ。自分のこころの投影が「この世」や「社会」という「観念」を生み出しているのだから、投影しているのは映写機だと見切らねばならない。そうすれば投影された「観念」に脅かされることがなくなる。
それにしても、この「自己肯定煩悩」を認めないということは恐ろしいことなのかも知れない。人間は、自分のしたことや思ったことを認めて欲しい生き物だからだ。他者の承認と自己の承認がなければ人間は生きられないかも知れないのだから。突き詰めれば、他者の承認が得られなくても、少なくとも自己の承認が得られれば人間は生きられる。「ひとはひと、自分は自分」という見切りができれば生きられる。
その最後の砦としての「自己肯定」をも認めないのが〈真実〉の信仰ということになると、その信仰とはいなかるものなのか。変な言い方になるが、それは「結論」を握らせないということだろう。自己肯定も、「それが自分なのだ」という「結論」を拠り所とする。その「結論」を「結論」としないということだ。「結論」は阿弥陀さんに放擲してしまう。そして自分が軽くなる。「結論」を握りしめていると、それは徐々に重さを増し、苦渋に沈みこんでしまう。
ところが、人間は「結論」で成り立っている生き物でもある。ひとから、あなたは誰ですか?と問われれば、自分の知っている情報を相手に向かって述べる。出自や名前や住所、職業や性格など、つまり、自分の「履歴」を伝える。それは自分が既に知っている「既知の結論」としての情報だ。「自己肯定煩悩」は、それらによって鎧を着けたような状態となる。
私もよく、「あなたは住職なんですよね?」と聞かれることがある。そのときには、「私は、皆さんに住職と呼ばれているものです」と答えるようにしている。その真意は、ひとから「住職」とは呼ばれていても、果たして「住職」とは何なのかは分かっていないということなのだ。寺の責任者であり、伝道者であるなどというのは、世間が勝手に決めたことであって、自分とは何の関わりもない。だから、自分とは何なのかということが、本質的には分からないものだ。もし分かってしまえば、分かったことを土台にして生きなければならないのだから、これは窮屈だ。まあ日常は、「幻想」を「幻想」として演じなければならないので、儀式の執行や宗教法人の運営ということもやらざるを得ない。ただそれは「幻想」であると知っている。
つまり、親鸞が「面々の御はからい」と述べた真意を敷衍すれば、面々が一人一人、阿弥陀さんと対面しろということだけなのだ。そこには「師」という権威者の権威を利用して自己肯定しても駄目なのだ。丸裸の自分として立ち向かうだけだ。それは自己を自己の力で承認しようとする煩悩をも対象化されていなければならない。
ここまで書いてきて、気になっている言葉に焦点を当ててみたい。それは『歎異抄』第十三条のこの言葉である。
「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。」だ。
この十三条では、「本願ぼこり」が問題になっている。「本願ぼこり」とは、阿弥陀さんの本願は悪人を救って下さるのだから、悪事をしてもよい、むしろ悪事をするひとを愛して下さるのだから、どんどん悪をするべきなのだという考え方である。これは「悪人成仏」ということを主張する教義には、必ず起こってくる信仰の異端である。
人間は善に傾けば善事をすることで自己を肯定しようとし、悪に傾けば悪事をすることで自己を肯定しようとする。どちらにころんでも「自己肯定煩悩」の餌食から逃れられない。
ここでは、まず「本願ぼこり」は信仰の異端だと批判するひとが登場する。確かに、当初は、これは異端に違いないと唯円も認めていく。しかし、最後まで来ると、「本願ぼこり」は駄目だと批判するひとをこそ批判するのだ。その理由は、「本願ぼこり」を批判することをもって、批判者は自己肯定、つまり自分を誇っているからだ。そして、「本願ぼこり」を批判するひとも、実は、「煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや」と再批判している。「本願ぼこり」とは言っても、それは自分を誇っていることと同義語なのだ。
この「煩悩不浄、具足」とは、「自己肯定煩悩」のことだ。「本願ぼこり」を批判するのは正しいことだ。しかし、その正しいことを主張することの裏には「自己肯定煩悩」が張り付いているじゃないかという批判だ。だから、それは「願にほこらるるにあやずや」である。「本願ぼこり」は異端だと言って批判しているお前たちこそが、「本願ぼこり」になっているのではないのか、という厳しい批判である。
しかし、ここではたと立ち止まらざるを得ない。それでは、ここで批判者を、さらに批判している唯円の立場は、「本願ぼこり」にならないのか。批判者をさらに批判する立場は、やはり「自己肯定煩悩」から起こった批判だから、どうしても、これは「本願ぼこり」になるのではないか。
だが、そこへ向かっても「煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。」という言葉が浴びせられてくるのだろう。どこまで行っても、「本願ぼこり」、つまり「自己肯定煩悩」なしに人間は生きられないということだ。この言葉が浴びせられてくる場所が、「本願ぼこり」である。
それこそ、『歎異抄』の「歎異」というこころが人間のこころではないのと同じようにである。「異なることを歎く」精神とは、人間全体が、丸ごと歎かれることであって、決して人間が人間の有り様を歎くこととは異質だ。人間の歎きにはため息が出るが、この「歎異」は、永遠に人間の「歎き」を超えた「歎き」である。ため息も届かないほどの、永遠の「歎き」であるというしかない。
この「歎き」が降り注ぐ場所は、どこまでも「自己肯定煩悩」で生きる存在のところだ。だから、安心して「自己肯定煩悩」であればよいのだろう。そもそも、いまだかつて自己肯定以外のこころで生きたこともないし、これからもそれ以外で生きることのできない存在なのだから。