「点的人生」から「線的人生」へ

 信仰を表現するときに「地図の譬え」というものがある。自分がこれからある目的地に行こうとして、地図上で目的地を探している。あちこち探して、とうとう目的地が見付かった。しかし、目的地に行こうとしても、目的地が見つかっただけでは、そこへ行くことはできない。
 目的地だけではなく、いま自分のいる場所が見つからなければ、目的地までのアクセスが分からない。いま自分のいる場所が見つかって、初めて目的地に行くという行動が成り立つ。
 これは譬喩であるが、〈真実〉を言い当てている。つまり、この譬喩を使って何が言いたいのかと言えば、目的地と自分の居場所は同時に見つかるということだ。
「浄土」という目的地が見つかるということは、同時にいまいる場所が「娑婆」だと、初めて見つかるということだ。それなのに、「娑婆」は見つかっているけれど、「浄土」が見つからないというひとがいる。それは、「浄土」が見つかっていないばかりではなく、「娑婆」も見つかってはいないということなのだ。それなのに、「娑婆」は見つかっていると思い込んでいる。そのひとにとって、それは錯覚であり、「娑婆」が見つかっていないということなのだ。つまり、「浄土」も「娑婆」も両方とも見つかってはいないのだ。
 だから、「浄土」という目的地には一歩も歩み出せない。自分の居場所が分からないのだから、どっちの方向に歩み出せばよいのか分かるはずがない。
 これでは、人生が「点的人生」にならないか。自分の居場所から、一歩も動かず、まったく歩み出せていないのだから、そこでずっと足踏みしているような状態だ。自分では目的地に向かって歩んでいるつもりになっているが、それは「点的人生」だ。そんな「点的人生」から、目的地が見つかり、そっちのほうへ歩み出せて、それが初めて「線的人生」となる。それを親鸞は暗示的に「往生」というメタファーで語っているようだ。「往生」とは、メタファーであり、人間にとって完全に意味開示された言葉ではない。ところが、「往生」という言葉を目にした途端に、人間の頭の中には「往生という言葉に対する思い込み」がムクムクと頭をもたげる。もし「パメムジセタ」という言葉を目にしても、恐らく頭の中には「何らかの思い込み」が頭をもたげることもないだろう。この記号を目にしたのは、生まれて初めてだから、そんな言葉(記号)に対して「先入観」も「思い込み」も懐くことはできない。つまり、意味不明な記号としか受け取れない。
 実は「往生」という言葉も、それに等しい記号なのだ。でも「往生」という言葉を知っているひとにとって、それを再度「意味不明な記号」として受け取り直すことは不可能だろう。無理をして、「往生」という言葉の「思い込み」を振り払おうとしても、それはできない。言葉を知ってしまった自分は、もう言葉を知らなかった前の自分には戻ることができないからだ。
 まあ、それはともかく、「往生」という言葉の表層の意味は、「往き生まれる」だから、「いまいる場所から何処かへ往き生まれる」のだろうと受け取れる。『広辞苑』(第七版)には、こうある。「①〔仏〕この世を去って他の世界に生まれかわること。特に、極楽世界に生まれること。②死ぬこと。③あきらめてじっとしていること。どうにもしようがなくなること。閉口。」などとある。これらも人間の「思い込み」であって、「往生」という言葉の、ごく一部分の意味を言い当てているに過ぎない。
 いつも言うことだが、辞書には「意味」は書かれていない。書かれているのは「文字」の羅列に過ぎない。辞書を調べれてみれば、それはすぐに分かる。目で追えるのは、「文字」以外にはない。それでは、ひとは何のために辞書を引くのだろうか。それは、やはり、言葉の「意味」を知るためだろう。ところが目にするのは「文字」以外にない。それでは「意味」はどこに書かれているのか。実は「意味」は、「文字」という記号によって刺激されたあなたの頭の中に沸き起こる何かなのである。「意味が分かる」ということは、実に不思議なことなのだ。辞書とは、ある言葉に対する「意味」をいろいろな文字群を呈示して想像させる。そしてそれらを見たとき、我々の頭に「意味」を沸き起こす。この沸き起こった「意味」を受け取ることで読者は安心するのだ。
 だから、確かに『広辞苑』にそう説明されれば、そういう場面で、自分は「往生」という言葉を使うよなと腑に落とされる。つまりこれは状況説明(使用例)であって、言葉の「意味」そのものの説明にはなっていない。また辞書を読んだひとは、それほど深くその言葉の意味を知りたいとも思わないのだろう。ある程度の「意味」が満たされれば、それで満足するのだ。また辞書とは、その程度の使用の仕方しか想定されていないのだ。辞書はあくまで方向指示器であり、そこから更に深く知りたい人は、専門書へどうぞということなのだろう。
 その「点的人生」から「線的人生」を開こうとするのが〈真・宗〉という信仰運動だ。つまり、「目的地」が発見できた人生だ。それは「死」で終わることない「目的地」だ。「点的人生」は、人生が「死」で終わると思い込んだ人生だが、「死」が幻想だと覚醒するのが「線的人生」だ。
 それを誤解を承知で言えば、「目的地」に到達したとき、初めて「現在地」が成り立つ人生だ。もっと言えば、「既往生」が成り立ったときに、初めて「未往生」が成り立つことだ。既に往生したという過去形が見つかったときに、初めて未だに往生していないという未然形がいただける。だから「目的地」に向かった人生が始まる。ただ、もう「目的地」には到達しているのだ。だから、もう「絶対の満足」なのだ。何にもなる必要のない完全円満な状態だ。この「絶対の満足」が成り立つことで、初めて「絶対未満足」の〈いま〉をいただくことができる。それが「線的人生」である。
 つまり、方向性を持った人生の始まりだ。人生のコンパスを持った人生だ。コンパスとは方位磁石のことだが、〈いま〉いる場所がつねに「目的地」を指差している。指差しているということで満たされる。それが「未往生」の〈いま〉である。決して「既往生」に飲み込まれることがない「未往生」。「絶対の満足」が成り立ったから「未往生」に安住できる。満たされたから、不満足を不満足のままに安住できる。
 暗中模索という言葉があるが、これは我々の人生そのものを暗示した言葉だ。それこそ五里霧中を突き進んでいる舟のようなものだ。何の目的もなくだ、ただ漂っている。目的を持っていると思っているが、それは「欲」が満たされれば満足だと考えている幻想が生み出す「目的地」だ。それも当面の「目的地」であって、人生の「目的地」は次々と変化していく。だから、それは究極の、最終目的地ではない。
 人生の最終目的地が欲しいというのが、人間の根源的欲求だ。それを見出したときに初めて安心するのだ。それを「浄土」と言い、「弥陀の本国四十八願」(『教行信証』真仏土巻)と善導は言った。その言葉に刺激されたのかどうかは分からないが、親鸞は「帰去来、魔郷には停まるべからず」という言葉を引用している。
「魔郷」とは、「死」で終わる「点的人生」のことだろう。「魔」は外からやって来るのではない。「魔」は自分の「欲」が生み出しているだけだ。自分が生み出しているにも関わらず、それが外からやって来るものだと錯覚している。
 だから、「弥陀の本国」へ還れと叫んでいる。これはコッソリと言わなければならないが、我々はもともと、「弥陀の本国」からやって来たのだ。だからと言って、それは罪悪のない無垢な天使のようなものをイメージされては困る。「弥陀の本国」とは、地獄の底の底にあるのだから。地獄の底の底まで透徹した本願が、救いの手を差し伸べている場所だ。これが「本国」の正体だ。
「弥陀の本国」は、「点的人生」を食い破って、「線的人生」へと転換する運動そのものだ。永遠に「救済運動」が無限に展開してる場所そのものだ。もう既に我々は浄土に住んでいるのだ。浄土に住んでいるから、娑婆に安住できる。「浄土内娑婆」である。「既往生」しているから、「未往生」が始まったのだ。「既往生」していない「未往生」は恨みと後悔しか生まない「残念な人生」に終わる。だから、「既往生」した「未往生」でなければならない。そのとき「点的人生」から「線的人生」が始まるのだ。
 そもそも、「本願」は「本願成就」から出発しているではないか。「本願成就」とは「既往生」が成り立ったことだ。そして「本願」とは「未往生」が成り立つことだ。
「本願成就」とは、苦悩する存在がすべて救われてしまったということだ。つまり「既往生」していないものはいないという状態だ。この「本願成就」から、あらゆる苦悩する存在を救おうという「本願」が生まれたのだ。「本願」はつねに「未往生」のところ以外にははたらかない。
 まど・みちおさんの詩に「もう すんだとすれば」という不思議な作品がある。
「もうすんだとすれば これからなのだ あんらくなことが 苦しいのだ 暗いからこそ 明るいのだ なんにも無いから すべてが有るのだ 見ているのは 見ていないのだ」と詩は続いていく。
 これを読むと、「本願成就」から「本願」は生まれるのだと教えられる。私は以前『もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった』という本を出した。しかし、それは「因位」からの表現だ。「果位」からの表現にすれば、「もう済んでいるから、まだ始まっていなかった」となる。「果位」の表現の方が、安心感のある表現だと感じる。でも、これは一見すると矛盾したことを言っているように見えてしまう。人間の世界は、満たされていないことが満たされることで満足がやって来ると考えるからだ。でも、それは「欲」の世界だけのことだ。
 人間は、どこかで知っているのだ。「欲」で満たされただけでは、本当の満足が成り立たないことを。人間の本心とは、自分では気づけないほど深いところにある。だから、掘って掘って掘り進む以外にない。自分の本心を掘り当てるために。