第3回 秋葉原親鸞講座の質問&感想に応えて

2026年2月25日に開催されたれた第3回秋葉原親鸞講座の「質問&感想に応えて」をここに転載する。

1■「妙好人」がいるのは〈真宗〉が修行しない教えだから、とのお話。修行がdoingだから、修行する宗派では修行の出来ない妙好人は生まない。「妙好人は真実の信心を得て 念仏の生活を送る人」という理解であっていますか?
 他の宗派では「信者」というのかと思いますが、「信者」と「妙好人」はどういうふうに違うのでしょうか? 妙好人は『いのちの真実』に触れた人と以前言われていたのをおぼえているのですが…。「信者」となると「信ずる者」となり、信ずる主体と信じる対象が分かれてしまうのでしょうか?
武田→ 冒頭に「「妙好人」がいるのは〈真宗〉が修行しない教えだから、とのお話。」とありますが、これは、私の言いたかったことと少し違っているので、その辺を補ってみたいと思います。まず「妙好人」と呼ばれるひとは、僧侶でも知識人でもなく、農民などの第一次産業に従事するひとびとです。そういうひとが多かったという事実を述べているだけです。これは禅宗や他の宗派にはないことで、真宗の特徴だと言われています。それを「〈真宗〉が修行しない教えだから」、妙好人が生まれるのだと受け止められたのですね。まあ、外側から見れば、そのように受け止めてもよいと思います。
 しかし、彼らの関心は、「修行をするかしないか、修行ができるかできないか」などという問題関心をはるかに超えていたと思います。それは、即刻、〈いま〉、問題の解決が欲しいのであって、そんなことをやっている余裕がないのです。だから「修行をしない」、あるいは「修行ができない」という理由で真宗を選んでいるわけではありません。
 ただ、〈真・宗〉は「いま・ここ・私」以外を問題にしませんから、なりふり構わないのです。「~する(doing)」という関心は、必ず「目的」と「する行為」とが分裂してしまいます。何らかの「目的」を目指して、何かを「する」のですから。その意味で、「する」が継続している間は、「目的」に到達できません。だから、〈いま〉、それを解決することにはなりません。「いま」することになれば、目的を達成するのは、必ず「未来」になってしまい、〈いま〉からズレてしまうのです。これは「仏教」であれば、真宗であろうと他の宗派であろうと、必ず問題になることです。親鸞は、それを「如来回向(他力)」、つまり「されている」という受け止めで解決したのだと思います。それは、「~する」という関心が、初めて、「自力」として発見されたことです。「他力」に出遇うまでは、「自力」も「自力」として発見できないのです。我々も「自力」という言葉があるので、ついつい「自力」を分かったことにして使っていますが、それは本当には分かっていないのです。「自力」が発見されたということは、「自力」が無効であり、「自力」の思いが死ぬことだからです。
 次に書かれている、「妙好人は真実の信心を得て 念仏の生活を送る人」と書かれていますが、これは辞書的な理解としては合っていると思います。また「他の宗派では「信者」というのかと思いますが、「信者」と「妙好人」はどういうふうに違うのでしょうか?」と書かれていますが、私は、「信者」でも「妙好人」でもないので、両方の違いは分かりません。また、「妙好人は『いのちの真実』に触れた人」という言い方も、辞書的な意味では問題のない理解だと思います。しかし、この理解をさらに突き詰めれば、「いのちの真実に触れ」るとは、どういうことなのでしょうか。それを再度、自分自身の実感として確かめてみなければ、本当のことは分からないと思います。
 まあ私の実感から言えば、真宗門徒は「信者」ではなくて、「行者(ぎょうじゃ)」と言うべきだと思います。『歎異抄』にも「信心の行者」(第十六条)とか、「一室の行者」(後序)という言葉が出てきます。これは「修行者」ではなくて、「生活者」という意味です。〈真・宗〉は、「生活」が、そのまま「行」です。「自分は行などしているとは思わない」と言われるかも知れませんが、阿弥陀さんから見れば「行」をしている姿なのです。「生活」は、阿弥陀さんが、具体的に「行」をしている姿ですから。私が「行」をしているのではなく、阿弥陀さんが行じているのです。この阿弥陀さんの行じている後から自己はついていくだけです。生活の真の主体は阿弥陀さんなのです。自己はどこまでもお客さんです。
 この自己は阿弥陀さんから、問いを与えられるのです。「必ず死ぬのになぜ生きるのか?」と。この問いに答えるために生活しているのです。この問いに対する答えを見つけなければなりません。これは仏さんから課題を与えられている「菩薩」さながらではありませんか。我々は、阿弥陀さんからご覧になれば、みな「菩薩」だと思います。自分の自覚は別にしてです。

2■はじめまして。浅草通覚寺さんでお世話になっている、宮崎理恵子と申します。去年の11月に京都東本願寺の報恩講にて帰敬式を受け、法名を頂きました。一昨年94才の母が亡くなり、お手次ぎ寺である通覚寺、稲垣和弘ご住職に導いてもらいました。
何もわからない私ですが、残りの人生、悲しみも多いかも知れません。今の大切さ、「今」を受け止める、何がおきても悲しみを悲しみのまま受け止める勇気、この学びで少しでも勇気が持てたら幸いです。これからも宜しくお願い致します。
(宮崎恵理子)
※奥様の死別→人間は自分の体験した範囲でしか物事を受けとれない→考えさせられま
した。
武田→ 私の、いつも帰るところは、人間には純粋の愛はないという原点です。人間の愛はエゴイズム以外にない、という確信です。そこから、「悲しみは貪欲(とんよく)の悲鳴なり」という言葉も回向されてきました。人間の愛とは「貪欲」以外にないのです。「愛別離苦」の悲しみは、他者を貪りたいという貪欲の断絶から起こります。つまり、貪欲がなければ悲しむこともありません。問題は、貪欲以外に自分はないのだと明確に知ることです。そして、「本当の自分」は悲しみや喜びなどの「感情の自分」とは違うところにあると知ることです。「感情の自分」が「表層の自分」であれば、「本当の自分」とは、それらすべてを支えている「深層の自分」です。おそらく唯識は、それを「阿頼耶識」として発見したのだと思います。自分を成り立たせている深層意識の阿頼耶識です。曽我量深先生は、「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」と言われています。そして『仏説無量寿経』で述べられている救済物語の主人公である法蔵菩薩を憶念され、「如来は我なり。されど我は如来に非ず、如来、我となりて我を救いたもう」とおっしゃいました。さらに「如来我となるとは、法蔵菩薩、誕生のことなり」とも言われました。譬喩的に言えば、この「身体」が「阿頼耶識」なのです。「身体」というと誤解を与えますが、「モノとしての身体」ではなく「コトとしての身体」です。「モノとしての身体」は、肉体ですが、「コトとしての身体」とは、その肉体を肉体として機能させているはたらくシステムのことです。モノは目で見ることもできるし触ることもできます。しかし「コトとしての身体」は目で見ることも触ることもできません。この「コトとしての身体」こそが「阿頼耶識」であり、「本当の自分」なのです。この「本当の自分」と「感情の自分」とを棲み分けることが、「他力の信心」というものだと思います。

3■妙好人は幸せだったのだろうかという事を考えました。妙好人はどんな気持ちで教えをいただいていたのでしょうか。庄松さんの「なんともない」という言葉の深さを未だ味わいきれずにいます。
武田→ 庄松が、法主から「信心を得られたすがたを一言申せ」と問われて、それに対する答えが「なんともない」ですね。これは自分がしてきた苦労や努力が、丸ごと阿弥陀さんに奪い取られてしまったときの感想です。庄松も、信心を欲しいといろいろなことをしたはずです。しかし、「努力をした」という思いをすべて奪われてしまうのです。奪われてみれば、「信心」など自分に用のないものになったのです。だから、「なんともない」という言葉が出たのでしょう。
 信心を欲しい、欲しいと思っていたときには、あるはずだと思っていた「信心」が、阿弥陀さんに奪われてみれば、そんなものは在っても無くてもどちらでもよくなり、「なんともない」が出るのです。これは庄松の主体が阿弥陀さんに奪われたことを表しています。
ですから、「妙好人は幸せだったのだろうか」と問われていますが、そんな「幸せ」とは縁を切ったのです。「幸も不幸」も、貪欲が生み出す幻想です。ですから、「幸と不幸」で一喜一憂しないのです。まあ一喜一憂は感情ですから、感じることもあったのでしょう。しかし、そんなものに振り回されない自分になったのでしょう。
 お釈迦さんも、三十五歳で悟りを開いたとき、「苦労してやっと証得したものを、なぜまた人に説かねばらなぬのか。貪りと怒りとに焼かれる人々には、この法を悟ることは容易ではない。」(『阿含経典』2ちくま学芸文庫)などと傲慢なことを言ってます。この傲慢を阿弥陀さんは綺麗さっぱり切り捨て解体して下さり、「凡夫」に帰してくれたのだと思います。もしこの手柄を自分の思いの中に溜め込んでしまえば、「平等の救い」にはならないのです。特殊な能力を持つ人間だけが覚りを開くことのできる、「超能力宗教」に堕してしまうからです。妙好人の存在は、「救いの平等性」の証明でもあります。

4■歎異抄の回心ということ「ただひとたび」は漢字にすると「唯一度」ですか。今日の
説明を聞くと違う気も。
武田→ この「ひとたび」をあなたがどう受け取るかということ一つに掛かっています。これをたった一度の、つまり「一過性の体験」と受け取るのか、それとも、「一生を包む体験」と受け取るかです。これは自分の人生をどう受け取るかという問題に掛かっています。私の言い方で言えば、「通時的時間」に破れて「共時的時間」に生きることです。「通時的時間」とは「流れる時間」ですが、「共時的時間」とは「流れない時間」のことです。この「流れない時間」が開かれることを「回心」というのです。ですから、「このひとたび」とは、つねに〈いま〉をいただき続けることです。決して流れませんから、つねに〈いま〉なのです。そして、過去も未来も、すべてが〈いま〉の内容に変化するのです。
 ただ残念なことに、我々は純粋な〈いま〉を生きることができません。人間にとっての〈いま〉は、すぐに腐って「過去」となってしまうからです。「過去」になれば、人間の煩悩の餌食にされてしまいます。だから阿弥陀さんは決して煩悩の餌食にならないように、人間には〈いま〉を与えられないのです。ただ「〈いま〉を与えられていない」ということを御利益として、人間に与えます。それで人間は「煩悩」を超えて自由になることができるのです。なんでも自分に溜め込もうとすると自分は重たくなって苦しいです。その溜め込もうとする思いをすべて阿弥陀さんに明け渡してしまえばよいのです。それで自分は軽くなるのです。

5■私は「妙好人」に憧れを持っています。なれたらいいぁとも思っていますが、なりたくて、なれるものではありませんよね。
武田→ みんな「妙好人」にならなければならないのでしょう。つまり、真の「信心の行者」にです。でも、成ろうとしなければ成れませんが、成りたくて成れるものでもないでしょう。しかし、成ろうとしなくても成らしめられるということもありましょう。いや、もう成っているのかも知れません。つまり、このことは、自分が「妙好人」に成っているかどうかを自分自身では判断できないということです。親鸞も「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」という和讃を残しています。「名利に人師をこのむ」とは、他のひとから、あのひとは立派な仏法者だと評価されたいという欲望のことを言っています。だから、これを援用すれば、親鸞もひとから、「妙好人」と見られたいと思っていたということです。まあ、そういう欲も起こります。人間は、煩悩の総合デパートですから、無いものはないのです。縁が催せば、あらゆる煩悩が起こります。ただ、この煩悩を「自分で起こしている」と思うか、「自分に起こっている」と思うかで、世界はまったく違うのです。「起こしている」と受け取るのは「自力」ですし、「起こっている」と受け取れば「他力」です。まあ、「名利に人師をこのむ」煩悩が起こっても、起こったままにしておけばよいのです。起こったものは、また時が経てば消えていきます。そして、自分は阿弥陀さんだけを見つめて、阿弥陀さんとだけ対話して、一生を過ごせばよいのです。

6■ありがとうございました。南無阿弥陀仏
武田→ まあ「南無阿弥陀仏」以外に、〈真実〉に近い言葉はありませんね。「南無阿弥陀仏」は、自分の本名であり、また阿弥陀さんの本名であり、私を救って下さる救いの法則そのものですから。
 自分でも手紙の最後に「南無阿弥陀仏」と書くこともあります。しかし、そう書いていて、これでよかったのだろうかという思いも起きます。この言葉さえ使っておけば、それですべてが許されて安心、これで始末が付くと思っていることへの違和感です。南無阿弥陀仏で締めくくれば何とかなると思っていることに対する違和感です。でも、この違和感を持ちながらも、これを文末に使うこともあります。でもあるときは、これを使っていて、これでよかったのだと思うこともあります。またあるときには、南無阿弥陀仏などと使える自分なのだろうかという思いも起こります。どのように使ってみても収まりの悪いのが南無阿弥陀仏です。と言うことは、この言葉はもともと人間には使うことが許されていない言葉なのかも知れません。使うことが許されていないにも関わらず、これを使っている。そのことに対する阿弥陀さんからいただく違和感なのかも知れません。だから、まあどこまでも違和感を持ちながら使う言葉が南無阿弥陀仏なのでしょう。これは人間を超えている言葉ですから、人間界には収まりが付かないのです。