親鸞が持っている「払子」の謎

 2026年4月18日に六組のバス研修で、茨城県常総市にある「報恩寺」を数十年ぶりに参拝した。ここは親鸞の直弟子である「性信」が開基の寺である。性信と親鸞は、当時の「吉水の草庵」、つまり、法然の学校で出会っているから、一番初期の弟子と言ってよい。昔は、この辺りが横曽根と呼ばれていたので、「横曽根門徒」のリーダであった。他にも、親鸞の高弟は「高田門徒」のリーダーである真仏や、「鹿島門徒」の順信が有名である。
 高田門徒は、栃木県真岡市高田周辺に分布し、そこにあった「専修寺」を本山としていたが、文明年間(室町時代)、栃木県から三重県津市一身田へ移った。本山が移るということは意外なことだが、兵火や災害という非人為的なことが原因であったり、あるいは当時の政治や教団状況など人為的なことが条件になって寺基が移ることはよくあることだ。
 現在の高田派では栃木県のを「本寺」と呼び、三重県のを「本山」と称している。
 この報恩寺もご多分に漏れず、江戸初期に茨城県から江戸へ移っている。その理由は、徳川家康の要請だと言われている。その後、八丁堀から浅草に移り、現在は台東区東上野に移転している。
 これは『〈真実〉のデッサン7』にも記したことだが、二年前に、東上野の報恩寺を参拝したとき、安置されている親鸞像の右手に「払子」を確認している。左手には「念珠」、右手には「払子」である。この「払子」は寺伝によれば、「道元禅師より頂いたもの」とされているという。1829(文政12)年に江戸幕府が調査した『御府内寺社備考続編』には「払子 一尺三寸七部 達磨大師伝来」と記されている。
 このことについて、当時の報恩寺住職・板東性純師と駒澤大学教授・池田魯参師が『曹洞禅グラフ』(2002年3月1日発行)で対談している。対談のテーマは「道元禅師と親鸞聖人をむすぶ謎の払子 ―禅と念仏の究極の一致とは―」である。
 板東師は、「この親鸞聖人が持っている払子は道元禅師からいただいたという伝説は江戸時代からあるんです。」と語り、報恩寺に伝わる「文書」を池田師に見せている。それを見て池田師は「『達磨大師悟道印可の払子』と訳しています。天童山で如浄禅師から永平道元禅師が頂いたものを、越州の波多野義重に云々とあり、これを親鸞聖人に与えたと書いてありますね。」と述べている。この「文書」を私はまだ確認していないので、現住職・板東性悦さんに探索してほしいと依頼はしている。
 続けて板東師は、こう述べている「道元禅師が福井に行かれるまでの七、八年間はお二人とも京都におられたことになります。」
 確かに、報恩寺の親鸞像はそれほど高齢の顔立ちではない。ということは、やはり親鸞が六十代、道元が三十三歳頃の出来事だったのかも知れない。しかし、なぜ「払子」を頂いたことで、自分の座像を彫らせたのだろうか。もしこのポーズが親鸞の要求であったとしたら、どのようなことが意図されていたのだろうか。そのことについては、後ほど考えてみたい。
 それはともかく、道元(43歳)が福井に行かれてから、最晩年(53歳)に京都に戻るまでの十年間に二人の接点はない。私は以前、親鸞の住まいが「西洞院通り五条下る」にあり、道元が臨終を迎えた場所が、やはり、「西洞院通り高辻上る」なので、近所だったと想像していた。そのこともあり、そこで「払子」を渡されたのかと思っていたが、それは考えにくいと対談では語られていた。
板東「道元禅師は京都の覚念の屋敷で療養されますね。ちょうどそのころの親鸞聖人のお住居は覚念の屋敷の筋向かいになります。ですから道元禅師がここで亡くなられたときにお通夜があったとしますと、八十一歳の親鸞聖人は弔問されたと思います。」
池田「隣組ですからね。」
板東「しかも親鸞聖人の末娘の覚信尼が道元禅師の義理のお兄様の久我通光に仕えていたという経歴がございます。」
池田「(略)しかし、そういうご縁で親鸞聖人が道元禅師の通夜に弔問されたとしても、道元禅師はもうご病気が重かったから、その直前に親鸞聖人に払子を贈られたとは考えにくい。」
 道元は五十三歳で亡くなるのだが、永平寺で体調を崩し、病気療養のために京都に来られ、すぐに亡くなっている。このことからすれば、やはり晩年ではなく、もっと若い頃の出来事だと想像される。さらに対談は、こう続いている。
池田「この板東先生のお父さまが記された記録では、この払子は『波多野義重の懇情によって道に発つとき親友がわが大祖親鸞聖人に附属した』と書いてありますね。これが事実だとすれば、道元禅師は自分が使っていた払子を福井に発つときに、親鸞聖人とも親しい親友に言付けるような形で親鸞聖人に差し上げたということになります。」
板東「はい、間接的に親鸞聖人がいただいたということになりますね。」
 ここでは、「払子」は道元が直接親鸞に渡したものではないと言われている。そうすると、西有穆山が、「開山(道元)が手ずから払子を上人(親鸞)に贈られたことがある」(『正法眼蔵啓迪』下巻)ということは、間違いなのかも知れない。ただ西有も、自分が目の当たりにしたわけではないので、おそらくそのように判断できるような資料を持っていたのではなかろうか。それがどこにあるのかは定かではない。
 そこで、今回参拝に行った常総市の報恩寺だが、ここにも開基とされる直弟子・性信の座像がある。この座像が、なんと東上野の報恩寺の親鸞像と同じポーズをしているのだ。やはり、右手には「払子」、左手には「念珠」が握られていた。親鸞像の握っている「払子」は、払子とも見えないようなものだが、性信像は美しく明らかに払子だと分かる。まあこれは後世の方が作り変えたものだろうから、当時のものとも思えないので新しく美しいのだろう。それはともかく、このポーズは直弟子・性信が、親鸞像を真似て造られたのであろうことは想像に難くない。
 それで、他の弟子たちの像はどうなっているのだろうかと知りたくなり、ネット検索をしてみた。すると、高田派の二代目、顕智の座像が、なんと同じポーズを取っているではないか。初代・真仏のものは見付からなかったが、真仏の娘婿である顕智の座像は、間違いなく性信像と同じフォルムをしていた。
 この親鸞像・性信像・顕智像が同じポーズを取っていることの意味はどこにあるのだろうか。確かにその他多くの親鸞像は、「払子」をもっているものはないので、これは特異な形だと言えば、それまでのことなのだが、このことが禅宗の伝承の中にも記されているということは、特筆すべきことではなかろうか。
 曹洞宗では、道元の『正法眼蔵』生死の巻の解説の部分で、このエピソードが紹介されている。まあ書誌学的な研究によると、この「生死の巻」は、道元が述べたものではないという説もあるという。なぜそのように言われるのかということも、内容を見れば、分かるような気もする。「生死の巻」では次のように述べられている。
「タタワカ身ヲモ、心ヲモ、ハナチワスレテ、佛ノイヘニナケイレテ、佛ノカタヨリオコナハレテ、コレニシタカヒモテユクトキ、チカラヲモイレス、ココロヲモ、ツヒヤサスシテ、生死ヲハナレ佛トナル、タレノ人カココロニトトコホルヘキ、佛トナルニ、イトヤスキミチアリ」(『大正大蔵経』第八十二巻)
 これを西有穆山は、こう解説している。
「『ただわが身をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて』。こころはどうも真宗の安心とよく似ている。これは親鸞が浜子で開山に相見して法をきかれ、そのとき開山が手ずから払子を上人に贈られたことがある。そこでこの御巻は親鸞に書いてやらしたものだというが、この安心の仕方でそれが知れる。『わが身をも心をも』。自分了見はみんな捨てて
しまって仏の家に──真宗なら南無阿弥陀仏、禅宗なら南無帰依仏というように、仏の方
へ身も心も打任せる。そこで身心ともに自己がなくなるから、今度は仏の方から行なわれることになる、この身が仏法で行なわれるようになる。凡夫は凡夫の身心で仏法を行なうから駄目じゃ。仏の方からこっちの身心が行なわれて来るように、我れは仏になり仏が我れとなって、我れが万法を修するにあらず、万法が我れを修するとこういかにゃならぬ。仏の方から行なわれて来るのでないと真実(ほんと)でない。ゆえに身も心もなにもかも、作法是れ宗旨で、ただ行仏威儀に従い、ただ仏の教に従って寝るも起きるも仏法になってゆけばよいのだ。」
 これを読めば、真宗の法話ではないかと勘違いするほどだ。ここまでくると、もはや禅宗だ真宗だというセクト主義は消え去っている。そもそも宗派などという観念は、所詮「共同幻想(吉本隆明用語)」であり、実体のないものである。
 道元は「ただ座る」と言い、親鸞は「ただ念仏」と言った。ともに仏法に出遇う縁は違っていたが、両者に共通していたことは「ただ」ということだ。この「ただ」を伝えるために道元は「坐禅」を方便にし、親鸞は「念仏」を方便として用いただけだ。ともに見つめているところは「ただ」だった。この「ただ」とは、「佛ノカタヨリオコナハレテ、コレニシタカヒモテユクトキ、チカラヲモイレス、ココロヲモ、ツヒヤサスシテ、生死ヲハナレ佛トナル」である。親鸞は、これを「如来回向」と命名したに過ぎない。つまり、いままで自分が人生の主人公だと思ってきたが、それが逆転することだ。自分が客人になり、仏が主人公になることだ。別の言い方をすれば、因位(コト)が仏であり、果位(モノ)が自己になるのだ。
 そしてこれが凄いところは、高邁な信仰の極致に成り立つようなことではなく、ごくごく身近に、もともとあったことという点だ。いつでも、どこでも、誰でもが、そこに、もともとあった地点なのだ。ただ理性的な人間は、そのもともとを忘れて浮かれていただけのことなのだ。
 だから『無門関』では、「仏とは何か」という問いに対して、「乾屎橛(糞搔きヘラ)」などと奇抜な答え方をする。現代風に言えば、トイレットペーパーだろう。我々は「仏」などという言葉を見れば、「高尚な、覚りの極致、上品な」などのイメージを懐いてしまうが、そうではないと一気に指弾する。むしろ不要のモノであり、我々が日常に使うものであり、見向きもしないような不浄のものでさあえあると批判する。
 この答え方は、〈真実〉は、我々の「本来性」にあり、しかもそれを忘れていることを指摘するのだ。これから掴みにいくものではなく、すでにして与えられていて、それを忘れて気づかないでいるだけなのだ。妙好人の奇行や下品さは、この「本来性」の大地から生まれてくるものでもあろう。
 話はおかしなところに行ったが、この右手に「払子」、左手に「念珠」というフォルムを親鸞が注文して作ったものであるなら、おそらく、「禅」や「念仏」というものを、下に超越したところにこそ〈真実〉はあるのだと示したかったのではなかろうか。それにしても、まだまだ謎が完全に解明されたような気がしない。これからも継続して追い求めていきたいと思う。