阿弥陀さんとの絶対関係、垂直関係を開く。これだけが自己にとって、もっとも先決であり、究極的なことである。暗雲低迷している中に、一本の閃光が天空から射してくる。強烈な一本のひかりが天空から自己に向かって射してくる。これが「親鸞一人」という言葉を生んだのだろう。
これが阿弥陀さんとの絶対関係の樹立だ。これさえ開かれれば、後のことは縁に従って応じていけばよいことになる。縁に応じることを「相対関係」と呼べば、阿弥陀さんとの究極関係は、「絶対関係」だ。
ひとを千人殺してみろというような言い方や、仏法者と見えるように振る舞うことよりも牛盗人と呼ばれるほうがまだましだ、というような言い方は、阿弥陀さんとの「絶対関係」が開かれたひとでなければ言えないことだ。人間に「究極」を突きつける場合には、世間的な、つまり平穏無事な言い方を突き抜けてしまう。極度にどぎつい言い方でしか、「究極」を突きつけることはできない。
人間がこの世に誕生してきたのは、一人一人が阿弥陀さんとの「絶対関係」を開くためなのだ。そのための参考意見はたくさんある。ただ、悲しいことに、この「絶対関係」は、人間の側からは開けない。いくらしゃかりきになって頑張ってみても、人間の側からは開くことができない。だから、これを開く方法は誰も教えることができない。
親鸞は、『仏説無量寿経』を真実の教と言った。これは阿弥陀さんとの「絶対関係」が開かれたことの証明だ。我々教団人は、まず始めに「浄土三部経」ありきであって、これが真実だという親鸞の目線から出発してしまう。だから、『仏説無量寿経』(略称:『大経』)が真実だということを何とも思わない。へえ、『大経』が真実なんだと思ってしまう。
ところが、一般仏教の視点から見れば、『大経』が真実の教だなどとは思えない。それこそ『法華経』『華厳経』『阿含経』『涅槃経』などが大乗仏教を代表する経典であり、これらが真実の教と呼ばれるのに相応しい経典だ。それが常識であって、『大経』が真実などというのは、よほど変わったひとの見方だ。
話は余談になるが、昔の大谷大学は、真宗を学ぶのに「余乗・宗乗」というカリキュラム構成を採っていた。いまでは、「真宗学・仏教学」と縦割り構成だから、入学した段階で専門を分けられてしまう。しかし、昔はそういう分け方ではなかった。まず入学生は、「余乗」、つまり、仏教学全般を学ぶことになっていた。それで三年生になってようやく「真宗学」か「仏教学」か専門の専攻へと進んでいた。このカリキュラム構成が大切だといまになって思う。初めから「宗乗(真宗学)」を学んでしまうと、かえって真宗学の特異性が分からなくなる。「余乗」があった上で、初めて「宗乗(真宗学)」の特異性が分かるというものだ。仏教学全般の視座から見れば、なぜ『大経』が真実の教なのかが不可解に映るはずだ。
なぜならば、『大経』は阿弥陀さんの本願しか述べていないからだ。親鸞も「『大無量寿経言』というは、如来の四十八願をときたまえる経なり」(『尊号真像銘文』)と言っている。阿弥陀さんの本願しか書かれていない。言わば、人間が置いてけぼりになっている経だ。四十八願とは、阿弥陀さんの「誓願」である。これは、阿弥陀さんが阿弥陀さん自身に対してだけ誓っている願いだ。つまり、被救済者である「衆生」に何も要求していないということだ。無条件の救いを誓っているのだから、我々には何も条件を要求していないのは当然だ。
だから、「どうしたら救われるのですか?」という問いを阿弥陀さんに向かってすれば、阿弥陀さんは、「何もする必要がない」と応える。「どうしたら救われるのですか?」という問いは、蜘蛛の糸にぶら下がった悪人カンダタが吐く問いだ。自分だけこの地獄から逃れて極楽へよじ登ろうとするエゴイズムだ。阿弥陀さんは、「不共諸衆生 往生安楽国(普くもろもろの衆生と共に、安楽国へ往生せん)」と願じていると天親菩薩は受け止めている。この「普くもろもろの衆生と共に」救われるのだから、個人的に救われることは救いではないのだ。
阿弥陀さんは、自分だけ救われていい思いをしたいのだろうけれども、そうはいかないとおっしゃる。そして蜘蛛の糸をプツンと切られたのだ。そして地獄の泥沼に舞い戻ったカンダタは、地獄と一体化した。実は地獄を拒否するこころが地獄を生み出していただけなのだ。だから、もともと地獄などどこにもなかったと覚めた。そう気がついてみれば、ここが極楽だった。だれかが極楽や地獄を作っているわけではない。自分のこころが生み出した幻想だったのだ。カンダタには、もはや「救い」などという言葉も必要なくなってしまった。そして地獄と極楽という魔界をスルッと脱ぎ捨ててしまった。
別の言い方をすれば、カンダタは「一切衆生」を自己の身体としたのだ。「一切衆生」と聞くと、自分とは別個の生き物たちを想像してしまうが、そうではない。この生き物たちと溶け合っているのが自己の身体である。この「溶け合っている」という言い方に妙味がある。結果としての「一切衆生」ではなく、原因としての「一切衆生」だ。前にも言ったが、「モノとしての一切衆生」ではなく、「コトとしての一切衆生」である。「モノ」は特殊であって個別であるけれども、「コト」は普遍的である。
そのような生き物として、そのようにあらしめられている構造は普遍的だ。私が人間としてこの世に存在する根本的必然性はどこにもなかった。いま本堂の屋根裏に巣くっているハクビシンでもよかったのだ。ハクビシンもハクビシンに成りたくてハクビシンに成ったわけではない。この存在の構造は、私も同じだ。たまたま人間であり、たまたまハクビシンというだけのことだ。この「たまたま」が一切衆生の大地だ。
話を戻すと、阿弥陀さんは私に何も要求していない。阿弥陀さんが阿弥陀さん自身に救いを誓っているのが本願だ。だから、救いの条件を欲しがる被救済者とは方向性が完全に乖離している。ところが、この「完全なる乖離」がものすごいエネルギーを発するのだ。日本刀の真剣に譬えれば、真剣と真剣との勝負さながらだ。阿弥陀さんも真剣なら、私も真剣だ。
「完全なる乖離」なのだから、決して真剣同士がぶつかることなどないはずなのに。どこまで真剣同士でしのぎを削ろうとしても触れ合うことがないはずなのに。ただ、この「完全なる乖離」という関係こそが、阿弥陀さんとの「絶対関係」なのだ。
そうそう、讃岐の庄松が門主から、「信心を得られた姿を一言申せ」と問われたとき、庄松は「なんともない」と応えた。それに飽き足らず門主は、「それで後生の覚悟はよいか」とさらに問うた。それに対する庄松の応えが、これだ。「それは阿弥陀さまに聞いたら早う分かる、我の仕事じゃなし、我に聞いたとて分かるものか」と。
この「我に聞いたとて分かるものか」が、「完全なる乖離」から生まれた言葉だ。阿弥陀さんの誓願など人間に分かるはずがない。「完全なる乖離」なのだから。完全に乖離しているからこそ、朗らかに言えた言葉だ。阿弥陀さんのことなど分からんと、心底言えることが、阿弥陀さんと自己との「正しい」関係なのだ。