近ごろ、「浄土」という言葉が、ひしひしと感じられる。妻の還っていった場所であり、我々が生まれ出てきたところという曖昧なイメージだ。そんなこともすべては幻想だと、笑い飛ばしてしまうほどの意味界だ。
もう「意味界」という言葉を使ってしまっては、それとはズレていってしまうからダメなのだ。決して人間の知の届かないところだからだ。ただ、知の届かないところでも人間は、つい考えてしまい分かってしまうから厄介だ。
人間が分かってしまった「知の届かない世界」を「難思往生」という。そして、人間が決して分からない世界を「難思議往生」というのだ。そこに「議」があるかないかで全く違う。
「難思往生」で、「浄土」と言えば、それは人間にとって不可解であり、不思議であり、不安であり、鬱々とした感情が起こる。人間には知り得ないのだから、知の敗北感に囚われる。その敗北感はイライラ感でもある。なぜ人間には知り得ないのかという怒りだ。
しかし、「難思議往生」で、「浄土」を語れば、「ただほれぼれ」(『歎異抄』第十六条)であり、晴れ晴れであり、スッキリした感情が訪れる。
こんなふうに完全なる「非知界」を「浄土」という言葉で親鸞は表現しようとしたのかと思った。これは「娑婆と浄土」の境界の出現であり、その二つの世界の棲み分けでもあり、「機法の峻別」である。
以前は、「浄土」と言え、「無量光明土」と言え、「真実報土」と言え、すべて「知」の中に納められた意味として受け取っていた。しかし、それは違っていたのだ。決して「知」の中には納められない、純粋な「非知界」だったのだ。これが見付かることが、唯一の御利益なのだ。まああえて御利益などと言わなくてもよいのだ。必ず見付かるものであり、見付かっているひとには分かりきっていることなのだから。
「終末論」や「臨終来迎」が要求されてくるのは、「問題の先送り観念」ではないか。〈いま〉、すべてを解決するのではなく、「問題を先送り」して未来に何事かの解決を見出そうとする観念だ。問題は、つねに「いま・ここ・私」以外にはないというのが、〈真・宗〉だ。これほど、生々しく切迫し、躍動感溢れるコトは他にない。いま、この「非知界」に魅了されている。