自己の身体こそ阿弥陀さん

「阿弥陀さんとは、何ですか?」と問われたので、即座に「あなたの身体です」とお答えした。問われたかたは、きょとんとされていた。
 まさか、この自分自身が阿弥陀さんだと言われても、それをどう考えればよいのかと戸惑われたのだと思う。だから、この答え方も誤解を与える答え方だ。誤解を与える答え方ではあるけれども、それは仕方がない。〈真実〉なのだから。
 仏教は「身体」を表現するために、「補特伽羅pudgala」とか「身kāya」という言葉で、それを言い表してきた。「補特伽羅pudgala」とは「人、固体、個人存在」の意味であり、「身kāya」には「身体、肉体、アートマン、自分、五蘊の一つ、個人、存在」など膨大な意味を持たせている。
 親鸞自身も、この身体が阿弥陀さんだなどとは言っていないのだから、ますます誤解を与える答え方だと思われてしまう。親鸞の「身体感」は、こうだ。
「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべしとしらせ給え。」(『御消息集(善性本)』
 この「身」は「不浄造悪の身」であり、「心」は「如来」と分析されている。まあこれを親鸞の「身体感」と言うのは間違いだろう。これは親鸞の信仰告白だからだ。別に、自分自身の身体を「不浄造悪」と思っているということではないだろう。これは「機の深信」がそう言わせている言葉であって、自己の「身体感」を述べているわけではない。
 親鸞の直観したものをワンフレーズで受け止めれば、こうなろうか。
「自己の身体はモノではなく、コトである」と。まず、こう言っておいて、その意味を噛み砕いてみたい。
 自分自身の身体を自分の所有物(モノ)であるかのように見る見方を、「不浄造悪の身」と言うのではないか。だから、それは自分自身の身体を対象化して、それに向かって「不浄造悪」だと評価しているわけではない。これはあくまで「見方」を問題にしている。「不浄造悪」とは身体のことではなく、コトをモノとして受け取るこころの問題性を意味していると、私は受け取る。
 さらに、自分自身の身体を「不浄造悪」と評価するのではなく、「如来」として受け取り直す受け取り方を「如来とひとし」と言っているのだと思う。
 そもそも、仏教の説き方として、自分の身体を汚れたものとして表現してきた歴史がある。ブッダの言葉として最も古いものと言われる『スッタニパータ』にも、次のようにある。
「身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、鼻汁・粘液・汁・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは眼やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
(略)また身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
(略)《かの死んだ身もこの生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう》と、内にも外にも身体に対する欲を離れるべきである。この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者ではくて何だろう。」(『ブッダのことば―スッタニパータ―』岩波文庫)
 ここには、まず生理的な身体を克明に捉え「不浄物」で出来上がっていることを確認する。その上で、この「身体」を頼りとせず、「我執」という「欲を離れるべき」だと説かれている。
 ただ、この観念をもとにして、親鸞は「不浄造悪の身」と言っているわけではないと思う。生理的な衛生観念による「不浄造悪」ではなく、「煩悩」という精神性を、そのように言っているのだと思う。いわゆる、「貪欲、瞋恚、愚癡、慢、疑、悪見」という六大煩悩を意味しているのではなかろうか。
 だから、いくら衛生観念では汚らしいと見えたとしても、その身体そのものは自己の所有物ではなく、それこそ阿弥陀さんの促しによって形成されてきた生理体である。目やにやウンコは確かに汚らしいけれども、それは自分の都合や作為では、決して作ることのできない賜り物である。その意味で、身体は自分の思いを超えた、阿弥陀さんそのものである。汚いものであるけれども、これは阿弥陀さんだと受け取らなければならない。
 ただし、確かに身体は阿弥陀さんなのだが、肉体というモノが阿弥陀さんだと言っているわけではない。肉体として成り立たせているはたらきそのもの、つまりコトが阿弥陀さんなのである。だから、肉体というモノは見えてもコトは見ることができない。
 教学用語で言えば、モノとは「方便」であるから、肉体は「方便法身」である。「方便」は眼に見えるが、その方便を方便たらしめている「法性法身」は見えない。つまりコトとしての阿弥陀さんは目で見ることができない。
 だから、「阿弥陀さんとは、何ですか?」という質問に対して、「あなたの身体です」とお答えしたとき、質問者が、これをどう受け止めるかが問われる。私は、「モノとしての身体」を阿弥陀さんだと言っているわけではない。あくまでも、「コトとしての身体」を阿弥陀さんと言っているからだ。この「モノとしての身体」を、モノとして成り立たせている無量無数の関係性こそが阿弥陀さんなのである。
 そして親鸞の言いたいことを延長すれば、身体ばかりでなく、「心はすでに如来とひとし」ということになる。身体という生理体は、人間の思いを超えているから、これは阿弥陀さんだと受け取れやすい、しかし、こころまでも阿弥陀さんだとはなかなか受け取れない。
 ところが、私は、「思い」というものも自分の作為を超えているので、これも阿弥陀さんだと受け取っている。人間が何かを「思う」とき、必ず「思った」後でなければ、いま自分が何を思っていたのかが分からないからだ。人間の「思い」は自分の作為を超えているので、次に何を思うかは自分に知らされていない。
 これは夢と同じ構造だ。夢も、見た後でなければ何を見たかが分からない。見たい夢は見ることができない。これは考えるためのヒントである。実は覚醒時の「思い」も夢と同じシステムで動いているのだ。そんなバカなことはあるかと思うのであれば、実際に自分のこころの動きを見つめてみればよい。「思い」は「思い」の法則に則って、自由気ままに動き回っていることに気づくだろう。坐禅などの行は、それを体験させる。日常生活では身体が動き回っていてこころを見ることが難しいから、あえてゲームとして身体を「座る」という形で制止させる。制止させてみれば、こころが自由気ままに動き回る姿を体験しやすい。あえて身体の動きを止めることで、こころの動きを見ようとするのだ。
 こころは、こころの思うがままに自由気ままに動き回るはずだ。そうすると、このこころを操っているものは自分ではないことが分かる。それを仮に阿弥陀さんと呼んでいるのだ。だから、「こころは如来に等しい」ということになる。
 これも面倒なことだが、付け加えれば、「思い」も「思ったこと」は阿弥陀さんではない。「思ったこと」は、コトではなくモノになってしまうからだ。「思い」を「思い」として促し引き起こすはたらきが阿弥陀さんであり、コトである。私が「思った」と過去形で捉えれば、それはモノであり、「煩悩」という受け止めになる。だから、「不浄造悪」なのだ。ただ「思い」を促し引き起こす作用(コト)は自分を超えているから阿弥陀さんなのだ。
 私の身体もこころも、「因位」は、ともに阿弥陀さんなのだ。まさに私は阿弥陀さんと一身同体だったのだ。唯識の「摂為自体 同安危故」(『成唯識論』)だ。「摂して自体と為し安危を同じくするが故に」だ。これは「コトとしての身体」のことを言っていて、決して「モノとしての身体」のことではない。