真宗は「明日」を待たない宗教である。「明日」は要らないのだ。だから、今日より明日のほうがよくなっていくと考えなくてよい。娑婆は、今日より明日に好転を期待する。それは娑婆の習性だから仕方がない。娑婆は娑婆の論理で「健康に」動くしかない。
病気になれば、今日より明日に好転を祈るのが娑婆だ。そう祈らない人間はいない。それはそれでよい。でも、「究極」はそれでは済まないのだ。
親鸞の見つめる視線が焦点を結ぶところは、いつも「究極」である。いまいのちを終えようとしている時点こそ、「究極」の姿が現れるところだ。いまいのちを終えようとしている時点に、今日より明日という発想は生まれない。
娑婆の論理は、突き詰めると、〈いま〉の否定である。佐伯啓思は、こんな分析をしている。
「過去は否定されるべきもの、乗り越えるべきものであり、既存のものは無駄なものと等値される社会であり、その逆に、将来へ向けられたものは、何か希望にみちて歓迎すべきものとみなされる社会。若さ、活力、独創性が価値をもち、他方で、老い、静寂、伝統は価値を失っていく社会。これこそが経済成長主義を支えている社会的価値観といってよいでしょう。これほどはかなく、むなしいことはありません。」(『死と生』新潮新書)
これは〈真実〉のフォルムに共鳴した表現だ。ただこれは外に広がる社会の問題で、さほど切実なものではない。「しかし」と佐伯はいう。それが自己の問題として、「一人の一生を見てもそうです。」と彼は言う。
「イノベーションが加速され社会変化の速度が速くなればなるほど、現役として社会の主役である期間は短くなる一方でしょう。(略)おごれるものは久しからず、すぐに次の新しい時代がやってくる。自分自身が働き、関与しているイノベーションのおかげで、やがて自分自身もお払い箱になってゆく。進歩というものは、恒常的な自己否定、自己破壊とさえいってもよいのです。」
娑婆の論理は、「恒常的な自己否定」である。いやいや、これは現代に始まったことではなく、縄文人から弥生人への進化から始まったものであり、もっと言えば、人間が「言葉」を獲得したところまで遡れる問題ではなかろうか。
「言葉」の獲得とは、同時に「生と死」を獲得したことでもある。「言葉」が物のレッテルだと思い込んでいるひとにとって、この表現は不可解に映るのではなかろうか。「言葉」は、事物を表現するための道具(記号)であって、事物(物)とは違うのだと思っているからだ。つまり、「死」は生理的なものであって、「言葉」とは無関係だと思っているからだ。ところが、実は、「言葉」が「死(という観念)」を生み出しているのである。だから、人間にとって、「言葉」がなければ「死」は存在しないのだ。
その証拠に「死」は、誰に於いても、「他人事」としてしか経験できないではないか。自分自身はいまだに体験したことがないではないか。「他人事」の「死」を見て、それを自分自身に引き写して考えたところに「死」という観念が生まれてくるのだ。引き写して考えるということは、「言葉」抜きにはできないことなのだ。
「言葉」という記号が嫌いなら、それを「意味」と言い換えてもよい。そもそも、人間が相手にしているのは、記号としての「言葉」そのものではなく、「言葉」の指し示す「意味」なのだから。「死」という言葉、つまり記号を目の前に置けば、何らかの感情が動くはずだ。「見たくない」とか、「厭だな」とか、「不吉だ」とか、さまざまな感情が浮かび上がってくるはずだ。この感情を引き起こしてくるものこそが「意味」なのだ。
娑婆の論理は、「恒常的な自己否定」であると書いたが、なにゆえの「自己否定」なのかと問えば、それは「死」を否定し排除するための自己否定なのではなかろうか。「死」を否定し、限りなく「生」を延長したいがための自己否定かも知れない。人間が「言葉」を持ち、そこから「自己否定」としての文明を築いてきたのは、突き詰めると「死」の否定だったのだ。
ここまで赤裸々に、事実が暴露されたところが、親鸞の思考領域なのである。親鸞が「浄土」という問題を考えている時点とは、まさに、いまいのちを終えようとしている時点そのものの他はない。
とうぜん「浄土」という言葉も、娑婆の論理で受け取られ、現世を否定し、来たるべき他界を欲望するという誤解も生じた。「浄土」という言葉があっても、それをどの文脈で受け取るかによって、見え方は千差万別だ。
浄土教が見つめている場所も、「臨終」以外にはない。浄土三部経の一つとされる『仏説観無量寿経』が提起した問題も、それだ。物事の本質が暴かれるのは、物事を一番突き詰めたところ、つまり、「究極」である。それで、救済というところから一番遠くに位置づけられる「極悪人」の浄土往生という問題を提起した。
さらに「他力」の「究極」として、無条件の救いがどこで成り立つのかという問題関心には、「称名念仏(十回、ナムアミダブツと発語すること)」で応えた。
経典は、問題提起だけをして、何らの説明はしていない。まあ「答え」だけを記し、あとはお前が考えろと突きつけてくるのだ。それに親鸞も答えようとしたのだと思われる。
その応答の片鱗が、「現生正定聚」という言葉に見える。親鸞には「現生正定聚」という述語はない。これは解釈史の中で生まれた用語だ。ただ「現生に正定聚のくらいに住して、かならず真実報土にいたる。」(『三経往生文類』)などの表現をするので、そこから作られた教学用語である。
親鸞は、「常識」に則って、「現生では正定聚に住して、やがて臨終で往生する」と表現するときもある。これは「線状的表現」だ。現在(いま)は、浄土往きが定まった仲間たちに加わっただけであり、本当に浄土に往生するのは臨終の時なのだ、と。これは「究極の信」を「線状的」に時間軸に沿って表現したまでのことだ。私の言い方で言えば、それは「通時的時間観念」に沿う形で「常識的」に表現したまでのことだ。
この表現は「常識」を逆なでしないので、波風の立たない平穏無事な表現ということになる。ただし、平穏無事であることと「救済」とは異質だ。平穏無事ということは、先ほどの「恒常的な自己否定」と同質だからだ。平穏無事ということは、実は、限りなく〈いま〉を否定する発想だからだ。
親鸞は、この平穏無事のまっただ中に、強烈な嵐を巻き起こし、混乱と無秩序とを呼び起こす。それが「究極」からの切迫だ。そして限りなく、〈いま〉を〈いま〉として、そのままに受け止めろと迫ってくる。しかし、〈いま〉を〈いま〉として受け止めることは、「常識」にとって、とても受け止められるものではない。〈いま〉を〈いま〉として受け止めるのは、「常識」にとって敗北を意味するからだ。
「常識」とは、本質的に、〈いま〉を持たない観念だからだ。「常識」の考える、〈いま〉とは、必ず「過去」と「未来」に引き裂かれている。「常識」が考える〈いま〉とは、「いまは幸せだな」とか、「いま何時だろうか」という「いま」でしかない。それは〈いま〉を「いま」と受け止めた限り、すでに「過去」となった〈いま〉だ。〈いま〉を「いま」として受け止めるためには意識の操作が必要だからだ。意識の操作が入れば、それは純粋な〈いま〉とはズレてしまい、過去化された〈いま〉でしかなくなる。
「常識」は薄々感ずいているのだ。そんなものは過去化された〈いま〉に過ぎないと。だからそんな〈いま〉は親鸞の目指した〈いま〉ではないと。そうなってくると、〈いま〉を何処に見るのかと言えば、それは「未来」である。〈いま〉が過去化することを恐れるあまり、〈いま〉を「未来」に投影してしまうのだ。そこまではよいのだ。ただ「未来」に投影してしまえば、それは永遠に〈いま〉は訪れないことになる。〈いま〉が「恒常的な自己否定」にさられてるからだ。
「常識」は、「常識」に切実であればあるほど、このように〈いま〉が、過去と未来に分裂してしまい、〈いま〉を失うことになる。
これは直観的なことだが、親鸞の提起したことは、この限りなき「否定の〈いま〉」、ではなく、「収斂の〈いま〉」なのだ。「否定」とは、よくないことではなく、いまを否定することで何事かを未来に目指そうとする心性だ。だから素晴らしい心性なのだ。しかし、究極に突き詰めると、素晴らしさゆえの悲劇が生まれてしまう。自分の居場所がどこにもなくなるからだ。「過去」にも「未来」にも自分の安住する居場所はない。
それは素晴らしい自己否定が、そういう結末にならざるを得ない。
それに気づいたとき、時間の逆流とでも言えるような嵐に見舞われる。そして、いままで否定し尽くしていた風が止み、肯定の嵐がやってくる。それが「収斂の〈いま〉」だ。「収斂」とは、いままでバラバラに散らばっていたものが一点に集まることを言う。「過去」と「未来」に散乱していた時間が、〈いま〉という一点に集まるのだ。一点に集まると同時に、その一点から時間が流出していくことになる。
ここが存在の故郷であり、『臨済録』が言う「随所に主となれば立処みな真なり」である。否定すれば、どこにも居場所はなくなる。その否定が遮断されれば、いまいる場所が、すべて自分の居場所に変わってくるということだ。あらゆる場所が自分の、いま居る居場所になるのだから、これほど有り難いことはない。最早、どこかに理想の場所を見出し、それを探して歩き回る必要がなくなる。「随所に主となれば立処みな真なり」を気づいてしまえば、もはや、人間界から観光業がなくなるのかも知れない。もはやどこにも行く必要がなくなるからだ。まあ、どこも自分の居場所だから、どこへ行ってもよいということでもあるのだが。
これが「時間」の問題になってくるのが、「収斂の〈いま〉」である。〈いま〉以外を人間は生きたことがないというプレゼントだ。そしてこの〈いま〉をどのような〈いま〉として意味開示するかによって、別世界が開かれる。
まあ私は、「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」(「浄土和讃」)の〈いま〉として〈いま〉を頂いている。この〈いま〉は宇宙開闢から宇宙の終焉までが収斂された〈いま〉である。その統一点としての〈いま〉だ。だから明日などというものを期待しなくてよい。いま・ここは、常に「臨終」の〈いま〉だ。〈いま〉まさに「終わりに臨んでいる」のだ。これが赤裸々な「究極」というものだ。