歳を取るということは、「生老病死」が、いよいよ生々しく剥き出しになってくることだった。それを若い頃には、差ほど感じなかったが、歳を重ねるほどにヒシヒシと感じられるようになった。
まあ自分よりも年下のひとたちが次々とこの世を去って行く。あるいは、伴侶に先立たれていく。医師でも分からない体調の不調を感じることも多くなる。いわゆる「加齢」が原因と言われる不調も増えてくる。
「浜までは海女も簔着る時雨かな」で、あれこれと身体の養生をしなければなくなる。一日五千歩以上歩かねばならないないとか、筋肉が落ちないように運動を継続せよなどと言われる。老化とは、若い頃にしなくてもよかった運動などを継続的にやらねばならない。老化とは、何と忙しいものだろうか。
歳を取るということは、よいことが一つもなくなくことだ。周りを見れば、病気や死や老化ばかりがゴロゴロと散乱していて、よいことなどは一つもないなあと実感させられる。だから、老化とは鬱々とした日々に彩られてしまう。
当然、未来を見れば、暗澹たる気分にもなる。こんなことは、当たり前すぎていて、わざわざ文章にしたためるようなことでもないかも知れない。
ただ一つ、〈真・宗〉は、そんな未来は「幻想」だと一蹴に帰してしまう妙薬だ。暗澹たる気分も、老化の絶望も、一蹴されてしまう。そして「存在の零度」に帰されてしまう。
これは帰されてしまうだけでなく、気分を「捨受」にする。唯識では「感情」を「受」という言葉で表す。「喜怒哀楽」の感情を五つに分類し、「苦受」、「喜受」、「憂受」、「楽受」、「捨受」とする。まあ「苦受」、「喜受」、「憂受」、「楽受」の四つは、何となく想像できるが、五つ目の「捨受」が難しい。だが、意味深長であり、これが一番言いたいところでもある。
「捨受」とは、譬えれば「非感情」だ。「感情」が海面のさざ波だとすれば、「非感情」とは深海だ。海面が疾風怒濤の嵐に見舞われていても、数千メートル下の深海は微動だにしない。この海面と深海の両方をもっているのが人間の奥深さでもある。
私は連れ合いに先立たれ、海面の嵐を経験したが、深海は、まさに「非感情」がどっしりと控えていた。
それには、連れ合いと私の間が、完全に独立者と独立者の関係に截断されていなければならない。つまり、人間関係とは「煩悩関係」だと覚めていなければならない。これは、人情とかヒューマニズムを信頼しないということでもある。
安田理深先生の言う、「仏智とは血も涙もないということではないが、しかし血も涙もあるというものでもない。そこに一点の人間的残滓もないものである。」(『安田理深選集』第10巻)が、それを示している。連れ合いと私の関係に「一点の人間的残滓もない」関係が成り立たねばならない。海面では「血も涙もある」のだが、深海では「血も涙もあるというものでもない」のだ。だから、焼き場で焼かれた彼女の骨を見たとき、「これは抜け殻」だと思った。白骨を見ても、悲しみの感情は起こらなかった。これは彼女の滓であり、本当の彼女だと思えなかったからだ。
本当の彼女は、どこに往ったのかと言えば、それは阿弥陀さんの領域に往ったということだ。そこは人間の「知」が決して届かないところだ。そこは「知」の限界の向こう側だ。そして「知」の限界を知ることで、「知」と「非知」の境界を見出せた。
阿弥陀さんの領域とは、こんなに、呆れるほどに単純なことだった。「非知」と「知」の境界が出来上がるだけのことだった。
人間はもともと、「非知」に接して生きているじゃないか。「非知」とは特別なことではない。極々当たり前のことだ。ただ、人間は「非知」も「知」で受け止めてしまうので、限界に触れることができない。もし「非知」を「知」で受け止めてしまえば、それこそ「憂受」か「苦受」という感情で彩られてしまう。
佐伯啓思は『死と生』(新潮新書)の中で、こんなことを述べている。「どうせ、みんな死んでしまうのだから、人生なんかに特別の意味を求めてもしょうがない」ということです。そして、それに続いて出てくるのは、「どうせ死んでしまうなら、死ぬことなんか考えてもしかたがない。それよりも、ただただ楽しめばいいじゃないか」ということになる。」
一人称の「死」は体験できないと「知」で受け止めたとき、このように「ニヒリズム」か「快楽主義」か「ストア主義」が生まれる。
そして佐伯自身は、こう述べる。「私には、どうも死後世界は信じられません。死んでしまえばすべて『無』としか思いようがないのです。」と正直に披瀝しつつ、しかし、それであっても何かあるのではないかと直観し、さまざまな論を展開していく。でも、どこまで展開しても、「非知」には至り得ず、「知」の内部としての手触りに留まっている。
ただ、どれほど「知」の側に自分を置いて考えても、「非知」は「知」の内容になってしまう。「知」の内容に成った途端に、「死」は「憂受」か「苦受」の感情に汚染される。
しかし、「非知」が「非知」として受け止めれたときは「捨受」が起こる。これは「非感情」であり、深海の感情である。「非知」は「知」の断念ではなく、の「本来性」へ帰っただけなのだ。「非知」が「本来性」であって、「知」は「非本来性」というだけのことだ。そうなれば、「生」は意味のあるものでも、意味のないものでもなくなる。「意味か無意味か」という判断も「知」の内部のことだかからだ。そうやって、「意味の病」から抜け出る。そして、そこには「捨受」が生まれる。
話は飛ぶが、妙好人・庄松が「なんともない」と言ったときの感情だろう。門主から、「信心をいただいた感想を述べてみろ」と迫られたときの応えが、「なんともない」だ。これこそ「非感情」の表白ではないか。
もっと言えば、人間は、徹底した「非感情」などにはなれない。脳波を測定してみれば、寐ている間も感情の波形が出るはずだ。だから徹底した「非感情」などにはなれない。それは十分にわかっている。なろうとしてなれるものではなくて、もうすでになっていることに気づくということしかない。
これを何と表現したらよいのだろうか。よくよく分かっていることなのだが、それを表現する言葉がない。親鸞が「自然のことは、つねにさたずべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。」(「自然法爾」)と言ったことがよく分かる。「義なき」とは、私の言う「非知」である。「非知」とは何かを云々してしまえば、またそれは「非知」ではなくなり、「義(知)」の中に「非知」が取り込まれてしまうことになる。
これが特別なことではなく、人間の「本来性」、つまり「元々」そのようにあるのだということだ。仏法は、何かを付け足すことではなく、「元々」あったものに目覚めるだけのことだった。