第3回 秋葉原親鸞講座 (開催日:2026年2月25日)
第2回(2025年12月10日)に出された「質問&感想」に応えて
1■ 本日のレジュメ中、6の「『断』と言うは」、以下の項目がよくわかりませんでした。再度説明いただければ幸いです。
武田→ これは『教行信証』(信巻・聖典p244)に親鸞聖人が書かれている「横超断四流釈」の中の「断」についての解釈です。「「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。」
お西の現代語訳版では、こうなっています。
「断というのは、往生してさとりを開く他力の信心をおこすのであるから、もはや未来に迷いの世界の生を受けることがない。すでに迷いの世界を輪廻する因が消され、果もなくなるのであるから、速やかにその迷いの世界の輪廻を断絶してしまう。だから断というのである。四流というのは、迷いの因である四暴流、すなわち煩悩であり、また、迷いの果である四苦、すなわち生老病死である。」(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証紋類―現代語版―』2000年、本願寺出版社)
ここでは、「生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。」を「迷いの世界の輪廻を断絶してしまう」と訳されていますが、これは人間がイメージするすべての他界観を含んでいると思います。つまり、人間がイメージする「迷いの世界」も、そして人間がイメージする「理想の浄土」もです。人間は、自分にとって都合のよい場所を「浄土」とイメージし、不都合な場所を「地獄」や「迷いの世界」とイメージします。その二つのイメージをともに解体するのが「断」という阿弥陀さんのはたらきです。どちらも、人間が、「人間的にイメージしただけの世界」として対象化されるという意味です。
これは『歎異抄』で親鸞が、「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。」(第二条)と表現した信仰的態度と同じことを述べていると思います。これは親鸞が、門弟の問いの在処を先回りして答えた言葉ですね。門弟たちは、浄土往生を利害損得の関心で考えていたのです。念仏をすれば、理想の浄土へ往けるのか、それとも不都合な場所である地獄に堕ちるのかと。それを知っていた親鸞は、念仏で浄土へ往けるのか、地獄へ落ちるのか私は知らないと答えました。それは信仰ではなく、利害損得心という煩悩の欲しがる御利益です。その関心を厳しく断ち切ることを、ここでは「断」と述べられたのだと思います。
次の「六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。」ですが、「六趣」とは、「①地獄②餓鬼③畜生④修羅⑤人⑥天」という六道輪廻的他界観ですし、「四生」とは、「①胎生②卵生③湿生④化生」というあらゆる生き物の生れ方を意味しています。これらすべての他界観を「頓に三有の生死を断絶す」です。「三有」とは、「①欲界②色界③無色界」のことで、これも人間がイメージしたあらゆる生物の生存状態を網羅した言葉です。これを「頓に」ですから、たちまちに「断絶す」ると書かれています。つまり、簡単に言えば、「人間」が「死」んだとしても、人間がイメージするような他界には決して生まれないのだという気づきです。それが「地獄」だろうと「浄土」だろうとです。ただ、これには条件があって、「往相の一心を発起するがゆえに」なのです。親鸞が『教行信証』の信巻の冒頭で、「大信心はすなわちこれ、長生不死の神方」と述べたこころと同じだと思います。「大信心」という視座を開くことが、「断」を成り立たせるのです。いままで「死」を知っていると思ってきた思いが「断」ぜられるのです。そして、「死んだらどうなるのだ」という問題関心を、綺麗さっぱり阿弥陀さんに向かって手放すことになるのです。
2■どんな状況でも、その“今”を受け止め、自ずと踏み出る一歩が大切に思いました。
武田→ おっしゃるように、「“今”を受け止め」の「今」をどのように受け取るかということ一つに掛かっているのだと思います。面倒な言葉ですが、私は「通時的時間観念」としての〈いま〉ではなく、「共時的時間観念(救済論的時間観)」の〈いま〉で考えています。言わば、〈いま〉は、いつでも「空」なのです。だから掴みようがありません。「〈いま〉、何かを考えている」というのも〈いま〉ですし、「昨日のことを考えているのも〈いま〉」、また「明日のことを考えているのも〈いま〉」ですから、我々は〈いま〉から逃れることができません。別の言い方をすれば、〈いま〉の中には何でも収まってしまいます。
それも〈いま〉と思った瞬間に、過去に飲み込まれますから、永遠に〈いま〉を手に入れることもできません。それほど純粋なものなのです。それを私は、「流れない時間」などと言ったりしています。時間を流れとして感じるのは、通時的時間観念です。これは、人間特有の「恣意的幻想」です。それを幻想だと「断」じてくるのが共時的時間です。まあ、我々は「断」じられるだけであるのです。阿弥陀さんの時間は、「無時間」です。「無時間」とは、人間の「時間観」を超えているという意味です。この「無時間」に出遇うことによって、人間に「純粋な〈いま〉」が、「常に」開かれるのです。この「無時間」との出遇いを、「如来回向」としていただいた表現が、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(「浄土和讃」)だと受け止めています。
3■「地獄は一定すみかぞかし」の地獄が浄土のことだとは全く思いもしませんでした。
武田→ 「地獄」は人間にとって不都合な場所ですから、決して「住み家」にはなりません。もし無理矢理に「地獄が住み家だ」と言ってしまえば、それはマゾヒズムになりましょう。「この苦しみ多い娑婆こそが地獄であり、それに耐えて生きるのが信仰だ」などと言えば、それは禁欲的苦行主義になります。それはやせ我慢というものです。
厳密に考えてみると、親鸞はどういう気持ちで、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と言ったのでしょうか。「もう自分には念仏しかないのだ。念仏以外の行では助からないのだ。だからいくら聖道門の人々が、念仏は地獄に墜ちるような行だと非難されたとしても仕方がない。私には念仏しかないのだから」。こんな気持ちだったのでしょうか。あるいは、「聖道門の修行ばかりではなく、称名念仏という行をもってしても私は救われないのだ。だから、どうしても苦しみ多い地獄こそが私の住み家なのだ」。こういう気持ちだったのでしょうか。ただ、それをどこまで突き詰めても、真意の程は分からないのではないでしょうか。
私は、「いずれの行もおよびがたき身」を、「~する(doing)」関心の断絶と受け止めています。その行為(修行)が聖道門の行であろうが、称名念仏であろうが、「~する(doing)」関心であれば、それは成就しません。これは「菩薩のジレンマ」です。菩薩は「する」のです。自らは菩提を求め(自利)、他者を救済する(利他)修行を「する」のです。修行は覚りという目的のために「する」のです。だから、している間は意味を持ちます。しかし、その修行が達成されたとき、修行は成就されて仏となり修行は捨てられます。だから、している間しか意味を持ちません。「成就」を目指して「する」のですが、「している」間は不成就です。それが成就したら満たされ、「すること」の必然性がなくなるのです。
この「菩薩のジレンマ」を成り立たせているのが、「~する(doing)」関心です。このジレンマに気づいたとき、もはや修行を続けることができなくなります。違った言い方をすれば、いままでは覚りを求めるこころは菩提心であり純粋なこころだと思っていたのです。しかし、その菩提心こそが煩悩だと目覚めてしまったのが親鸞でしょう。そう目覚めてしまえば、もはや覚りを求める行為そのものができなくなります。これが「地獄一定」の原点でしょう。しかし、「地獄」以外に自分の居場所がないという目覚めは、阿弥陀さんとの出遇いを抜きにしては成り立ちません。この地獄の底の底にこそ阿弥陀さんはおられて、地獄に墜ちたものと一身同体になって苦を引き受けようとされているからです。だから、地獄の底の底こそが、浄土なのです。浄土とは、阿弥陀さんが休むことなく、私のためにはたらき続けて下さっている、「いま、ここ」のことです。
4■先生が死に対する観察日記を具体的に教えて下さることに感謝しております。「一人一宗派のご開山になればいい」とても良い言葉ですね。
武田→ 私は連れ合いとの「死別体験」を、自分をまな板に乗せて考えております。果たして、仏法を学んでいる人間にとって、「死別体験」とはいかなることなのかと。それを包み隠さず、思いのままに分析して公開したいと思いました。(詳細は、因速寺のブログ、または、やがて発刊されるであろう『〈真実〉のデッサン11』に収まります)
「悲しみは貪欲の悲鳴なり」という言葉も、その中から生まれて来た言葉です。「死別体験」の悲しみは、貪欲が生み出すものであり、それは連れ合いとは何の関係もないことです。私は連れ合いを、自分にとってお気に入りのオモチャにしていただけなのです。そのオモチャが取り上げられて駄々をこねて泣いている子どもでした。つまり、自我関心でしか人間は泣けない生き物なのです。連れ合いをオモチャにしていたこころこそ、「貪欲」というものです。この「貪欲」は欲が満たされればご機嫌ですし、それが遮断されれば怒り、さらに、それが叶わないことだと分かると悲しむのです。これが「悲しみ」の起こる構造だと覚めてしまったら、もう貪欲に騙されることがなくなりました。
やはり、独りで生れ独りで死んでいくのが人間なのです。この「独り」は賑やかな人々の中にある「独り」ではありません。「独り」が、そのまま「世界」であるという「独り」です。まあいつも言っている〈一人一世界〉のことです。
「一人一宗派のご開山になればいい」という表現も、それと地続きのことです。現状の仏教は、宗派仏教ですから、それぞれの教派・宗派に分かれています。これから将来の仏教を考えても、それを一つにまとめて組織化していくことは不可能です。それでは、将来の仏教はどうなればよいのか。それで私は、「一人一宗派のご開山」などと言っているのです。我々が「宗派」と考えているものも、そんな集団は「共同幻想」です。どこにも実体があるわけではありません。間違いないのは、それを構成している〈一人〉がいるだけです。もともと仏教は個人に成り立つものです。だからそこへ帰ればよいだけのことです。
いつもお話しするように、問題は、一人一人が「〈真実〉のフォルム」の断片を表現することなのです。〈真・宗〉とは人間を「表現者」にするものです。真宗に「妙好人」が生まれたのは当然の成り行きなのです。一人一人顔が違うように、仏法に対する味わいも違います。味が違えば、味わった結果、その口から出てくる言葉も違います。つまり、そのひとならではの表現を生むのです。これが創造的な仏法ではありませんか。仏教は、まだこれからどんどんお経の生まれる宗教です。西洋一神教は、神から預かった言葉が増えるということはないでしょう。しかし、仏教は仏法に触れた人間から、独自の表現が生まれ、それが「お経(断片)」として保存されていくのです。そんなものは「お経」ではないと言われるかも知れませんが、「お経」として受け止める人間が生まれれば、「お経」の意味を持ちましょう。そもそも仏教は、「如是我聞」の宗教です。「このように私は受け止めました」ということ以外に仏教はないのですから。
5■昨年より秋葉原親鸞講座に参加しております、サンガネット会員です。毎回、武田先生のお話に揺さぶられ、余韻は心の中で問答となり活力となるような喜びを感じます。
私は特段の信心を持たず、妻は淨土宗寺院の寺族ではありますが、私自身は深くかかわることもなく儀礼的に念仏を唱えるくらいで生きてきました。そしてここ数年、息子との関係や母の老いなどで、簡単に解消できない出来事に直面し、たまたま歎異抄を手に取り、よくわからないけれども腑に落ちる気がして真宗に興味を持ち、この講座でお話を聞き、書物を読む中で、この不完全な今を生きる依り所としてのお念仏を受け取ることができた(かもしれない)と、仮定なりにも阿弥陀様に近づけた喜びを感じております。このようなきっかけを与えてくださいました武田先生、真宗会館の皆さまに御礼申し上げます。
武田→ それは何よりでした。三帰依文にあるように、「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。」です。まさに千載一遇の「遭遇」です。私も、おそらく寺に生まれなければ、いまの私は無いと思っています。いまから思えばですが、私は、暗闇の中を彷徨う「欲動」のかたまりだったと思います。子どもの頃は好奇心の強い、それでいて熱しやすく冷めやすい性格で、落ち着きのない子どもでした。それがそのまま成長し、やがて劣等感の強い「灰色の生き物」に変わって行きました。もし仏法に出遇っていなければ、私の人生は薄っぺらなものになっていたと思います。やはり、この世へは「自分」を探しに来たのかも知れませんね。「本当の自分」を見つけるために。それを私は〈一人一世界〉として見つけました。この世に生きているのは、私一人であり、私が世界であると受け止めています。頼りにしているのは、私の中を流れている「〈真実〉のフォルム」だけです。単純に言えば、私の深層を流れる違和感をアンテナにしています。違和感をごまかさずに、違和感に導かれてきたのです。この違和感も阿弥陀さんのお育てだと頂いております。
6■歎異抄第四条の…いそぎ仏になりて…の「いそぎ」とは「今、ここ、私」が自覚された瞬間と同義語と考えて良いのでしょうか。
武田→ その通りだと思います。第四条には「いそぎ仏になりて」とあり、第五条には、「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」とあります。「いそぎ」が2回出てきます。これは、「畢竟」ですし、蓮如ならば「後生の一大事」ですし、親鸞ならば「頓に」でしょう。間違いなく「いま・ここ・私」が生々しく剥き出しにされた場所です。自力の思いや分別や、はからいの雲霧が断ち破られた、その「いま・ここ・私」の場所です。阿弥陀さんは、つねに「いま・ここ・私」に直面してきます。つねに急がれているのです。私も気の短い質ですが、阿弥陀さんほどではありません。しかし、人間は、そんなことは後回しにして、「そのうち」とか、「やがて」と逃げてしまいます。まあ、逃げ回っても、やがて必ず捕まるのです。「摂取不捨」とは、決して逃がさないということですから。あたかも孫悟空が地の果てまで行って、そこにある柱に字を書いて得意になったとき、実は、それがお釈迦様の掌の中のことであって、唖然としたというのと同じでしょう。これは自分が「自分自身をどのように受け止めているか」また「自分の人生と、この世界をどう受け止めているか」。その全体が「自分の考えている世界」であり、その世界から出ることができないと教えています。つまり、単純に言えば、「自分の固定観念と思い込み」を「間違いのない現実だ」と錯覚しているということです。それが錯覚だったと覚めればよいのです。
7■伝統的な仏教の言葉と新しい言葉が交じり合って、感覚を研ぎ澄まして聴かなければ…、というとてもおもしろい有意義な時間でした。深く知りたい欲が増しました。
武田→ これは私の精神的な質です。仏法の言葉は、それなりの意味世界をもっています。ただ、その仏教語が、いわゆる非仏法空間では意味を成さないということもあります。また、仏法が問題にしていることが、いわゆる人間一般の問題と、どこでリンクするのかというのが私の関心です。ですから、心理学やキリスト教や哲学などを縦横無尽に闊歩させてもらっています。仏法の問題関心は特別なものではなくて、他分野の関心と共鳴しています。そもそも「人間の問題」を扱うのが人文科学系統の学問でしょう。だから、扱う題材は同じです。ただ違う視点からひかりを当てているだけです。また他分野の表現と仏法の表現が火花を散らし、混ざり合うことで、新たな表現が生まれます。言葉が新しくならなければ思想も新しくなりません。その意味では、面白い実験だと思っております。
私は、近ごろ「親鸞の言わなかったことを言う真宗でなければならない」と言っています。親鸞の意味世界の中だけで、さらに親鸞が使っていた言葉だけで考えていたのでは、真宗は尻つぼみになってしまうと思います。
8■今日もありがとうございました。
質問に応えての3番、自己が<一人称の自己>を回復すれば良いという部分がむつかしく思いました。自己が「一切衆生を代表する一人」であることに驚嘆することが<一人称の自己>の回復なのでしょうか?
自分のいのちの深さと重さに気がつき、<一人称の自己>も自分にはわからないものだと手を放すというか……。「煩悩」と柔らかく付き合い、拝跪するというような事でしょうか?
法語はアミダさん、親鸞のことを語るものだと聞きました。自分の事を語る法語が多すぎると、先生の感覚を教えていただければ嬉しいです。
武田→ ご質問の、「自己が<一人称の自己>を回復すれば良い、という部分がむつかしく思いました。自己が「一切衆生を代表する一人」であることに驚嘆することが<一人称の自己>の回復なのでしょうか?」は、その通りだと思います。ただ、「<一人称の自己>」には表裏があって、「一切衆生の中の特殊存在としての一人」の面と、「一切衆生を代表する一人」の面です。常識は、「一切衆生の中の特殊存在としての一人」のみですが、この常識だけで人間は安心しません。これでは、「孤独感」を超えられません。ここに「一切衆生を代表する一人」を開くことで、初めて安定します。変な例えですが、この「一人」は、世界最高峰の山頂にある一人ではなく、世界最深部の海溝に位置する一人です。つまり、「主語」としての「一人」でなく、「述語」としての「一人」です。何よりも、この私という身体は、私の「思い」よりも深く重たいものでから、「思い」で計ることができません。環境と地続きの自己ですから、「世界」の側にあるのです。「一人称」というと、常識的には、「私」のことなのですが、「世界」と同質の自己のことを言っています。因縁であり、関係性で成り立っている自己です。「思い」をつねに超えている自己です。唯識の言葉で言えば、「阿頼耶識としての自己」です。「阿頼耶識」は我々の深層意識であると同時に、あらゆる存在を成り立たせている根本原理です。このため、我々の「思い」では到底掴むことができません。それを「手放す」と表現したのです。「煩悩」も、その「阿頼耶識」から発生してくるものですから、私を超えています。私を超えて、煩悩は起こります。これが「阿頼耶識」が引き起こしている姿であると教えます。これを「教え」としていただくことを、「煩悩拝跪」と表現しました。しかし、親鸞も、「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(『唯信鈔文意』)と言うように、始めは「煩わされるもの」として「煩悩」は出現するのです。よく、「人間から欲望を取ったら生きられない。煩悩があって当然だ」と居直るひとがいますが、こういうひとには「煩悩」は存在しないのと同じです。「煩悩」に煩わされていないのですから。「煩悩」に煩わされるという感覚は、仏道に入門しているひとにだけ起こる感覚なのです。ただ「煩わされるもの」が、やがて自己を教える教材へと転じられるのです。「教材」という言い方は、私が煩悩を起こしているものではない、という意味です。だから、自分と対面できるのです。そこに「教えられる者」としての自分が誕生します。
後半のご質問、「法語はアミダさん、親鸞のことを語るものだと聞きました。自分の事を語る法語が多すぎると先生の感覚を教えていただければ嬉しいです。」にお答えします。このご質問の表現を私がしたのでしょうか。もう少し、意味が汲み取れません。「法語はアミダさん、親鸞のことを語るものだと聞きました」というのは、私がそのように語ったということでしょうか。それとも一般論としてという意味ですか。それであるのに、「自分の事を語る法語が多すぎると」、あなたが感じているということですか。まあ、「法話」は、どこまでも個人と阿弥陀さんとの対話から生まれるものですから、「感話」であり、モノローグです。ということは、「自分の事」以外を語ることはできません。ただ、「自分の事」を語ってはいるのですが、それを聞いた聴衆のこころの中で、「そうだな」とか、「これは間違いないな」と受け取られたときに、その「感話」が「法話」となるのです。ですから個人が「感話」を語っていながら、その「感話」が「〈真実〉のフォルム」の断片に適っているものであって欲しいと願います。これが「三帰依文」の末尾にある「願わくは如來の真実義を解したてまつらん。」です。
9■ご愁傷様です。そんな言葉でいいのかわかりません。しかし思い浮かぶ言葉がありません。そういう経験をされた先生が『よびごえ』にて発せられた言葉を、慎んで拝読させていただきます。有難うございます。
武田→ これは私の連れ合いとの「死別」を契機にいただいた感想だと思います。「よびごえ」とは拙寺の寺報ですが、そこに私は「坊守が死にました」と題して文章を載せました。まあ、この世に生きている人間は、すべて「先立たれた者」であります。身内の、つまり「二人称のひと」と、必ず分かれていきます。親兄弟、夫婦、親子など、身近な者の「死」は切実です。私も連れ合いと別れるという体験は初めてなので、さまざまな感情を体験しました。何もかも初めてなので、なかなかひとと比べることができませんでした。でも、やはり、人間は自分の体験した範囲でしか物事を受け取れないものだと教えられました。私と同じように、伴侶を亡くされたかたがおられます。その方は、今回の私の死別体験を自分のことのように悲しんでくれました。それはとても有り難いことですが、そこに阿弥陀さんを介入させると、違った見方になるのです。つまり、どこまで他人のこころを想像したとしても、それは当人の心情とは重ならないということです。ご自分の伴侶との死別の体験と、今回の私の体験は異なっています。まあ、当然といえば、当然のことです。
「共感」とか「同情」というものは、他人のこころを、自分に引き当てたときに起こる感情です。しかし、どれだけ引き当てても、当事者の心情とは一つに重なりません。所詮、〈一人一世界〉しか人間は生きられませんから。
私は今回の死別体験から、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」と頂きました。「悲しみ」は貪欲が引き起こす感情であって、自分全体には無関係であるという感覚です。そして、私はまだ、彼女の本当の姿に出会っていなかったのではないかとさえ思えたのです。私の出会ってきた彼女は、「彼女の断片」であって、彼女全体ではないと。彼女全体とは、阿弥陀さんのみが知っておられることなのだとも思いました。つまり、人間としての視線が完全に相対化されてしまったのです。これが、南無阿弥陀仏の「南無」という意味です。「おまかせ」です。もはや、人間の視線を信じなくてもよくなりました。
10■(翌日FAXにて)
何年も前に池袋で受講を初めてさせていただき、その時に購入した『なぜ?からはじまる歎異抄』が、コロナで23年勤めた店が閉店となり転職することになった日々を支え続けてくれました。特にp.29の「私はあなたを見捨てない」と叫び続けているのが阿弥陀如来です。の言葉にふれた時の衝撃。この暖かい衝撃が何なのか?言葉になりません。あれからずっと言葉にならずにもう一度、武田先生のお話を聞きたいと思い、今回受講させていただきました。武田先生のお話を聞き、やはり思いを言葉にするのは難しいですよね、と思いながら、心は軽く、安心を頂き帰宅しました。そのためか翌日には寝坊をしてしまい、あわててしまいましたが、いつも通り朝のルーティンをし、頭を切り替えてお茶を飲みながら感想文を書かせていただきました。感想文を書き終えて「信じられている」という思いが強く胸に感じられました。ありがとうございました。(宮澤清美)
武田→ 私が「池袋親鸞講座」を担当したのは、2006年10月11日から2017年の11年間でした。その中で、「〈真実〉のフォルム」の断片に触れて下さり、本当に有り難うございました。それは何も私が〈真実〉を語ったということではありません。例えれば、釣り鐘と撞木の関係です。釣り鐘が、そこに吊ってあってあるだけでは音は鳴りません。それを撞木で打つときに音が出ます。そのタイミングが大事なのです。ただ、撞木で打たれたときに出る音の響きこそが〈真実〉です。この音は釣り鐘がもともと潜在性として保持していたものですが、撞木で打たれなければ現れません。この音は釣り鐘のものでもなく、撞木自身のものでもありません。この両者が絶妙なタイミングで出会ったときに生まれる何事かです。仏法との出遇いは、自分でも予期せぬ時に出遇うものです。法は永遠のものですから、時間は問いません。しかし、人間にはタイミングという縁がなければ、その法に出遇うこともないのです。親鸞聖人も「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく」、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(『教行信証』総序)と感嘆しています。やはり、「たまたま」なのです。それも「偶然」の「偶」ではなく、「遭遇」の「遇」の字を書いて、「たまたま」と読ませています。この「遇」には「両方から出会う」とか「思いがけなく」という意味があります。現代語にすれば「想定外」という意味でしょう。そこに驚きと同時に感動が生まれるのです。この感動のみが、人間を「救う」のです。
11■ 武田先生、本日は秋葉原親鸞講座ありがとうございました。
「よびごえ」というお寺の機関紙で、「坊守が『死』にました」との記事で、坊守って誰だろう?と読み進めたところ、奥様とのこと。お悲しみは幾許かと心よりお悔やみ申し上げます。
文章では、「人類は原始未開の時代から愛の力で生き抜いてきた生き物でしょう。親から子へ子から孫へといのちのありのままを教育してきたのです。」奥様はお孫さんたちに「いのちの教育をして旅立たれた」との記事、奥様のありし日のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈りします。これまでご住持職として大勢の方々のお弔いをされてこられたかと思います。ご自身が大切な方をお見送りされる浄土真宗の方のお気持ちの有り様がよく伝わりました。そして奥様への先生の愛情、感謝のお気持ちが良く伝わりました。合掌(髙坂 昇)
武田→ 連れ合いが亡くなり、約四ヶ月が経とうとしています。いまから振り返ると、ついこの間のことのようでもあり、もう何十年も前のことのようでもあります。皆様から、「お寂しいですね」と言われれば、確かに「寂しい」という感情はあります。蓮如上人も、『御文』(一帖目第十一通・聖典p771)で、こう述べています。
「それおもんみれば、人間はただ電光朝露の、ゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし。たといまた栄花栄耀にふけりて、おもうさまのことなりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。」と。まさか、自分より先にこの世から旅立つなどとは夢にも思って居ませんでしたから、当初は、「悲しみ」の感情に襲われました。ただ、この「悲しみ」を「悲しみ」のままにしておかないのも、阿弥陀さんの教育力です。そこから、「悲しみ」が起こってくる心理分析が始まりました。そして「悲しみ」は貪欲という煩悩が引き起こす感情であると突き止めました。貪欲とは、簡単に言えば「自己満足だけを欲求する深層心理」です。ただ、その心理分析によって、「煩悩」が「煩悩」として対象化されました。この「自己満足」が挫折されるとき「悲しみ」が起こるのです。そこに他者を利用価値としてしか見ない「貪欲」の罪が教えられました。このように対象化されると、自己が「煩悩」に乗っ取られていることがよく分かりました。ですから、「寂しい」という感情とは違った感情も生まれました。いわば感情は、大海原の海面のさざ波のようです。ですから、疾風怒濤のときもあれば、凪のときもあります。ただ、その海の底深く、深海はそのような激しい動きとは無関係のようです。ですから、「海面の自分」もあれば、「深海の自分」もあるのです。この「深海の自己」の感情とは、いわば「非感情」なのです。唯識では、感情を「慈・悲・喜・捨」と四つに分析します。「慈」とは慈しみの感情、「悲」は悲しみの感情、「喜」は喜びの感情です。ここまでは人間の表層感情なので分かりやすいのですが、最後の「捨」というのが分かりにくいです。まあ、「慈・悲・喜」の感情が起こっていない心理状態とも言われますが、私は、これらが海面のさざ波だとすれば、「捨」は「深海の自己」の感情だと思っています。まあ「非感情」の状態です。「深海の自己」は、海面に波立つ表層の自己を静かに見つめています。このように深層と表層という二重の構造が、人間の心理構造なのだと、あらためて教えられました。