親鸞は「極端思考」

 親鸞の発想は、「極端思考」である。それがゼロか百か、白か黒かというデジタル思考である。いかなるグラデーションも許さない。
 『観無量寿経』に出てくる、「三輩九品」でも、見つめているのは、「下品下生」である。『観経』は往生できるひとの累計を、可能性の高い方から、低い方へと序列していく。「①上品上生、②上品中生、③上品下生。④中品上生、⑤中品中生、⑥中品下生。⑦下品上生、⑧下品中生、⑨下品下生」である。それで、可能性の高い方は、阿弥陀さんに依らなくても、自分で何とかできるのだから、放っておく。それで、一番往生の可能性が低い「下品下生」を見つめていく。このひとは、「五逆・十悪」の愚人であり、もう悪いことしかしてこなかったひとだ。このひとが臨終間際になって、先輩から勧められて念仏しなさいと言われ、ナンマンダブツと十回称えたら、すべての罪は消えて極楽に往生することができと説かれている。
 一般的に見れば、つまり常識的に考えれば、こんなうまい話はない。散々、悪事を重ねて来た人間が、死ぬ間際になって改心し、念仏を称えれば極楽に生れられるなどということは、許されない発想だ。常識は、善人が極楽に往生できるであって、極悪人は地獄に堕ちると決まっている。こんなことが許されたら、この社会は成り立たないじゃないかという批判まで出てくる。
 いわばここに呈示された問題は、「極端」である。『観経』が問題にしているのは、救いの可能性が皆無と見える、「極端存在」をも救うということだ。いわば非常識なことを言っている。これを現代に移して考えてみると、一九九五年に起きた「オウム真理教」による「サリン事件」の首謀者・麻原彰晃が救われるのかという問題と軌を一にしている。
 そのとき思想家・吉本隆明は、「救われる」と公言し、世間からもの凄いバッシングを受けた。
 一方、『観経』が言う「五逆・十悪」の愚人は、「お経」の中に書かれていることだから、そんなひとは現実に居るわけがないと端から信じられていない。信じられていないからバッシングは受けない。しかし、それが現実に起こってみれば、これほど「極端」な話はない。
 おそらく親鸞が現代に生きていれば、吉本と同じ意見だったと思われる。吉本が世間を敵に回してでも、これを主張したのは、これを言わなければ、思想家としてのいのちを失ったからだろうと思う。それほどまでにこの発言は重たかった。ちょうど法然が弾圧される前夜、弟子から「口を慎まないと弾圧されますよ」と忠告されたのに対して、彼は、「たとえ、首を斬られようとも、このことを言わなければならないのだ!」と反論した態度と同じだろう。
 まあ、私は、「その通り」と称讃したが、ちょっと言い過ぎだとも思った。「その通り」とは、浄土教が見つめている被救済者は、「五逆・十悪」の愚人以外にないからだ。もし救いの可能性ゼロの存在が救われなければ、浄土教とは言えない。「ちょっと言い過ぎ」というのは、「誰が救われるのか」という問題は、人間が人間に向かって言える問題ではないということだ。「誰が救われるのか」という問題は、あくまで「阿弥陀さんと自己」の関係に於いてしか成り立たない問題であり、人間が人間を指さして言うことは許されない。だから、人間は、「麻原は救われるだろう」とまでは言えても、「麻原は救われる」と断言はできないのだ。吉本が断言してしまったところが、ちょっと言い過ぎのところだ。
 もし「麻原」が救われなければ、あらゆる存在を救うと誓っている阿弥陀さんが嘘を言っていることになり、浄土教は嘘の教えになってしまう。ここに「極端」を提起することによってこそ、その教えのもっている普遍性が試されるのだ。
 親鸞は「極端」を見つめていたひとだから、第十八の本願文にある「唯除五逆誹謗正法」という言葉にこだわったのだろう。阿弥陀さんはあらゆる苦悩の存在を救うと誓っているのに、「唯だ除く」という除外例のあることが許せなかった。そしてなぜ除外例が示されているのかということに、徹底的にこだわった、に違いない。親鸞は自分で「唯除五逆誹謗正法」の解説を書いてはいない。まったく書いていないわけではない。その片鱗を、チラッと『尊号真像銘文』に記している。 
「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。
 この解説は、何の波風も立たない、「ご無理ごもっとも」と言うような表現だ。結局、五逆と謗法の罪が重たいことを自覚させて、それであってもすべての衆生は救われるのだから、みな漏らさず往生できるのだと解説している。それだから、第十八の本願文に「唯除五逆誹謗正法」と書かれているが、これは何も本願が矛盾したことを語るわけではなく、救いの正当性を述べているのだと言いたかったのかも知れない。これは救いの正当性を概説したものとしてはよいとしても、親鸞らしさが失われた表現だ。
 ちょうど、善導が「唯除五逆誹謗正法」を解説したのと同じ形になってしまう。善導は、この言葉が第十八願文についている意味は、「抑止」だと言っている。これらは最も重たい罪だから、決して犯してはいけないよと「抑止」しているのだと言う。しかし、それはあくまで「抑止」であって、もし万が一、そのような罪を犯したとしても、最終的には阿弥陀さんが救って下さるのだから安心しなさいという解釈だ。
 一言で言えば、この解説は、「他人事」だ。たとえばそこに「五逆・十悪」の愚人がいたとして、そのひとが救われるのかどうかという「お話」になってしまっている。そこに退っ引きならない「自己」が問題になっていない。親鸞が親鸞である最も核にあるのは、すべてが「自己」の問題として収斂していくところである。あらゆる問題を「自己」に引きつけ、「自己」に落とし込んで考えるところだ。
 ところが『尊号真像銘文』の解説は、仏教書を概説しただけの、まさに信仰を「他人事」として述べているようにすら感じ取れる。そこには「自己」の問題に肉薄した親鸞らしい表現にはなっていない。これを書いたときの親鸞のモチベーションはどこにあったのだろうか。これは親鸞に聞いてみないと分からないところだ。
 『教行信証』のフルネームは『顕浄土真実教行証文類』であり、「文類」だから、確かに引用文の集積で成り立っている。ここは親鸞自身の主張を述べるところではない。あくまで証拠となる文献を列挙して、法然の思想を弁明するというモチベーションが主旋律である。だから、親鸞自身の主張を遠慮しているようにも感じる。師の正当性を弟子が証明しても、それは証明にはならない。それはファンが、贔屓にしているミュージシャンの素晴らしさをひとに向かって力説するのと似ている。それで自分以外の、つまり権威あるお経や諸師方の論書を引用して師の正当性を主張しようとしたのである。
 ただそうは言っても、それらの引用文をどのような眼で選び、並べるのかという、その編集眼に、やはり親鸞独自のものが表われている。だから、この編集眼は文字の上には表われない。ただ、どのような眼でそれらを編集したのかということは、編集の仕方から逆算して考えねば分からない。この編集眼は親鸞独自のものなのだ。
 特徴的なのは、この第十八本願文を引用するときには、必ず「唯除五逆誹謗正法」を削除せずに引用するところだ。これが法然の引用の仕方とは違っている。法然は、これを削除して引用する。法然の引用の仕方は常識的だから、分かりやすい。阿弥陀さんは苦悩する存在をすべて救うと誓っているのだから、除外例があってはならない。もし、この「唯除の文」を削除しなければ、本願がすべての者を救うということが嘘になる。だから、目障りな「唯除の文」そのものを削除したのだ。こう考えると法然のやり方はまっとうだと賛同されるだろう。
 しかし、親鸞は、第十八本願文を引用するとき、「唯除の文」までを削除せずに引用する。なぜ削除せずに引用したのか。ここに法然との違いがある。これは「唯除の文」にこだわっていたからに違いない。常識的に見れば、法然のような扱いにしておかねばならない。「唯除の文」を残していては、本願文が嘘を語ることになる。除外例があっては普遍的な救いにはならない。そんなことくらい親鸞は当然分かっていたはずだ。それであるのに、あえて「唯除の文」を悉く残した。
 これは、一つには、『教行信証』信巻の後半に引用される『涅槃経』が語る「阿闍世の救い」と深い関係を持っているからだろう。避けることのできない因縁によって阿闍世は父王を殺すことになる。言わば「五逆・十悪」の愚人である。この愚人を親鸞は自己に引きつけ、自分自身の問題と見たに違いない。
 父王を殺したことに対する罪の意識から心身症になり苦しむ阿闍世。そこから何とか救われたいと願う。それを慰めようとする家臣たちが信奉する思想家とも会う。しかし、救いはなかった。言わばそれは罪をなくして救われようとすることだからだ。罪を逃れて救われようとするこころは、切実なこころだ。しかし、それは『蜘蛛の糸』に登場する悪人カンダタと同じなのだ。自分一人が救われようとするこころは、自分さえよければよいとするこころでもある。罪を逃れ、自分一人だけ楽になりたいこころは自己保身のエゴイズムだ。最終的に、お釈迦さんに遇うことにより、そのこころが鏡に映るように暴き出された。それを自覚した時、阿闍世は、いままで恐れていた地獄へ舞い戻っていった。罪の報いで地獄へ堕ちることを恐れるのは、煩悩が恐れさせていると知ったからだ。
 自己保身を貪る煩悩は、浄土を貪るこころであり、片や地獄を拒否するこころでもある。ちょうど、親鸞が「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』第二条)と述べたこころと同じである。浄土も地獄も、共に煩悩が描いた幻想であり、そんな世界がどこかにあるわけではないと思っているから、そのように断言できたのだ。
 そしてとうとう、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と述べる。この「いずれの行」とは、「念仏以外の行」と読みたいところだが、これには念仏も含まれていると思われる。称名念仏を称えることで救われようとするこころは、やはり、自分勝手な自己保身のこころだ。だから、自分は「地獄以外にいる場所はないのだ」と言う。
「地獄一定」という言葉は、実に悲壮感に傾斜しやすい言葉だ。しかし、これにはいささかの悲壮感もない。なぜなら「地獄一定」とは、「浄土」に於いて言われているからだ。親鸞にとっての「地獄」の底の底とは、救いの可能性のゼロポイントだ。少しでも救いの可能性が残っていては、阿弥陀さんは動かない。本願が発動される場所は、つねにそのゼロポイント以外にない。ゼロポイントにあるときだけ、阿弥陀さんの救いがはたらくのだ。阿弥陀さんの救いが発動する場所はどこなのかと言えば、それは「浄土」である。だから、「地獄一定」とは「浄土」の中で言われた言葉なのだ。
 もし「浄土」の中でなければ、それは「慚愧」という絶望的な悲壮感に汚染されてしまう。さらにそれがつねに、〈いま〉という場所で言われていることを見逃してはならない。決して「救われた」と過去形で表現することが許されないゼロポイントだ。だから、〈いま〉はつねに「救いなき場所」でなければならない。ここから動いてはダメなのだ。ここが故郷なのだ。一回りして言えば、これを親鸞は「地獄一定」と述べたのかも知れない。〈いま〉ここが、「地獄」であるから、阿弥陀さんがはたらいてくださる場所となるのだ。しかし、もう「はたらいてくださる場所となるのだ。」と認識した途端に、それは、もう済んだことになってしまう。つまり、「過去」のことになってしまう。「過去」のこととして受け止められた途端に、〈いま〉とはズレてしまう。〈いま〉とズレてしまえば、救いは成り立たない。ここまでギリギリの「極端」にまで追い詰めるのが親鸞流だ。翻ってみれば、人間が表現できるものは、もはや「過去」のこと以外ではない。「過去」となって認識されたから、文字で表現できるのだ。こうなってくると、親鸞の突き詰めた救いとは、決して人間の認識の範疇に引きずり込むことができない何かだと言わざるを得ない。
 ただ、自分はつねに「唯除五逆誹謗正法」の場所に立たされている、とだけ言いたかったのかも知れない。つまり、救いの外側に。自分としては、内側に留まりたいのだ。でも、阿弥陀さんはそれを許さない。徹底的に外側に追い出してしまう。なぜ追い出すのかと言えば、その外側以外に救いがはたらかないからだ。外側こそが阿弥陀さんの救いが強大にはたらく場所だからだ。
 二つには、信巻の末部には、それこそ「唯除五逆誹謗正法」にこだわった先人である曇鸞の文章を引用している。親鸞にとって法然は「生みの親」であり、曇鸞は「育ての親」である。親鸞は、曇鸞がこだわった問題を、まさに自己の問題として受け止めていただろう。親鸞が曇鸞の文章に触れたとき、もの凄く感動したと思われる。それは自分にとって疑問と感じていた問題を、すでに曇鸞が提起してくれていたからだ。
 おそらく、親鸞はこう感じたのではないか。「私も長年、そのことについて疑問を感じていたのです。曇鸞さま!貴方は、それを六百年も前に感じておられたのですか!恐れ入りました!よくぞ、私の疑問と同じ疑問を起こして下さしました!この問題をこそ、私は明らかにしたかったのです!」と。
 この感動は、ちょうど『歎異抄』第九条で述べられた、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と共鳴している。唯円は、「念仏を称えていても、以前ほど感動しないのです。これはどうしてなのでしょうか」と、親鸞に恐る恐る問うている。この問い対する応答だ。「親鸞もこの不審ありつるに」とは、親鸞も唯円と同じ疑問を感じたということだ。この疑問を感じた先人は、やはり曇鸞だった。曇鸞は、こう告白している。
「かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」(『教行信証』信巻に引用されている『浄土論註』)
 お念仏は我々の迷いを破り、我々の本当の願いを満足させてくれるものだ。そうであるはずなのに、お念仏を称えても、迷いが晴れず、願いが満たされないのはどうしてなのだろうか、という疑問だ。
 この疑問は、曇鸞が感じた疑問であり、それを親鸞も感じ、いままた目の前にしている弟子・唯円が感じている疑問なのである。この疑問は歴史を貫き通す。だから、「親鸞もこの不審ありつるに」という表現には、感動の連鎖が無限に渦巻いている。
「唯円よ、お前もこの疑問を感じてくれたのか。実は、この疑問は六百年も前に曇鸞さまが感じて下さった疑問であり、私も感じた疑問である。それをいまお前も感じてくれたのか。なんと希有なことであろうか。よくぞこの問いに立ち止まってくれた。お前が、この疑問に掴まれたことをこころから嬉しく思うぞ。実は、この疑問こそが、未来永劫、この疑問に掴まれるであろう万人の救いを約束する鍵なのだ。」と。
 牽強付会だが、親鸞のこころを覗けば、そんなふうであったのではなかろうか。
 さて、信巻末部にある曇鸞の文章だが、これは解釈史では「八番問答」と呼ばれてきた。曇鸞自身が疑問と感じたものを八回提起し、八回それに答えている。その中での核心は、「五逆」よりも「誹謗正法」の罪が重たいと言っているところだ。「五逆」とは、一言で言えば、「犯罪」である。しかし、「誹謗正法」とは、個人的なことであり、内面で犯している罪だ。それであるのに、「五逆」よりも「誹謗正法」の罪が重たいと、曇鸞は言うのだ。
 その答えが、「五逆罪の正法なきより生ずる」である。つまり、この世のあらゆる「犯罪」は、「誹謗正法」が発生源であるというのだ。だから、曇鸞は「五逆」と「誹謗正法」を並列に並べて、どちらが罪が重たいかと論じてはいないのだ。どちらがより根源的なことなのかと問うているのだ。
「誹謗正法」とは、これも「極端」に突き詰めれば、「自分は自分の意志で何でもできると信じ、阿弥陀さんなどあってもなくてもどちらでもよいと考えていること」だ。つまり、「自力のこころ」のことなのだ。この「自力のこころ」が、あらゆる犯罪が引き起こされる、もっとも根源にある罪ということになる。
 ところが、この「自力のこころ」とは、人間あれば誰もが、それによって生きているこころのことである。自分は自分の意志で何でもできると思っているこころだから、ごく普通の意識のあり方だろう。だから自分は決して犯罪など犯さない善良な人間だと思い込んでいる。ところが、避けざる必然性がやってくれば、人間はどんな酷いことでもしでかす。二〇二〇年に起きたコロナウイルス騒動のとき、感染を恐れるあまり、地方の住民が、自県に入ってきた東京ナンバーの車を襲撃するという事件が起きた。秩序が安定しているときには、人間の本質が剥き出しになりにくい。しかし一度、危機的な状況に襲われたとき、人間は獣に変わる。太平洋戦争を例に出すまでもなく、人間は、危機的な状況に置かれれば、「同調圧力」によって獣に変身する。この「同調圧力」と「正義」が結びついたとき、一番恐ろしい結果を引き起こす。「正義」とは、誰にも否定できないという猛毒を持っているからだ。
 人間は自分の意志で動いているように見えて、実は「他力」で動いているのだ。親鸞も「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)と語っている。だから「他力」とは恐ろしいくらいに、現実を見つめたところから生まれて来た言葉なのだ。だから、よくよく自重し、「他力」の有り様を観察しておかねばならない。
 ごく卑近なことで言えば、人間は「考える」という行為すら「自力」ではおこなえない。そんなバカなことがあるかと思われるかも知れないが、事実はそうなのだ。これはいつもそうなのだが、人間は「考えていた」後からでなければ、何を自分が考えていたかが分からないのだ。人間の考えは、次々に浮かんでは消え、消えては浮かんでくる雲のようなものだ。その考えの雲が浮かんで来てから、その雲の正体を知るのだ。だから、「考える」ということも「他力」のなせる業である。この「他力」の構造を知ることだけが、そこから発生する罪を制御する力を持っている。
「唯除五逆誹謗正法」を削除しなかった親鸞は、いつも「極端思考」の世界にいたのではないか。それでなければ、「愚禿悲嘆述懐」などという和讃は作れなかったはずだ。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と、赤裸々に自己を告白することはできなかっただろう。これは阿弥陀さんがひかりであるならば、自己は闇であり、影であると語るようなものだ。自分が語りうるのは闇であり影以外ではないと。たとえ自分が「阿弥陀如来」と語ろうとも、あるいは「真実」だと思おうとも、それは「真っ黒な阿弥陀如来」であり、「汚れきった真実」だと言っているようなものだ。決して「本当の意味の〈真実〉」を語りうることはできない。方便以外の言葉を持たない。それは阿弥陀さんが、語ることも、思うことすらも絶対否定するからだ。「ありがたし」は阿弥陀さんの絶対否定を表している。
 写真で譬えれば、「言葉」はネガであり、決してポジではない。ただネガに阿弥陀さんのひかりが当たったら、それを傍らにいるひとがポジと受け取るだけなのだ。自分はネガ以外の世界には住めないのだ。もし親鸞もネガの世界のひとだったとしたら、彼は幸せなひとではなかっただろう。まあそれでもいいか。親鸞は、幸せも不幸も、ことごとく解体された世界に住んでいるのだから。