そこら辺にある「〈真実〉のフォルム」

先日、脇坂真弥(大谷大学哲学科教員)さんのお話をお聞きした。テーマは、「思うようにならないもの」と私たち ―シモーヌ・ヴェイユとマイケル・サンデルの思想から―
だった。ヴェイユは、(1909-1943)フランス生まれの思想家で、34歳で亡くなっている。生前に彼女は一冊の本も書いていないそうだ。それでも、「大量のノート」があり、「実践と思弁の垣根を越えて哲学・宗教・科学・数学・政治・文学等々のあらゆる分野におよぶ思索を展開」しているという。
 当日の資料の中に面白いものがあったので引用してみたい。
まず、「立方体を「見る」とはどういうことか」いう項目からの引用だ。
「箱が立方体に見えるような視点はどこにもなく、私たちの目に見えるのはいくつかの面だけで、角は直角には見えず、辺も等しくは見えない。これまで立方体を見たことがある者は誰ひとりなく、これからも誰も見ないだろう。箱の周りを回ると、そこに生まれる見える形は際限なくさまざまである。しかし、〈立方体という形〉はそれら見える形のいずれでもない。〈立方体という形〉はそれらの見える形のどれとも違っていて、それらすべての外にあり、見える形の領域を超えている。その一方で、それ自体は決して見えない〈立方体の形〉が見える形を統一する。それ自体は見えない〈立方体の形〉が、見える形にとっての真理となっている。」
 これは事実を事実として、執拗なまでに見続けたところから発見されたものだろう。確かに、おっしゃるとおりとしか言いようがない。ここに四角い箱があったら、我々はこれを「立方体」として認識する。大きさだけでなく、重さや堅さまで想像できるほどだ。しかし、「立方体」は見えいないはずだ。我々に見えているのは、それぞれの面や線であって、奥行きではない。ただ線や面を総合して、頭の中にある「立方体」を見ているのだ。だから、「見える領域を超えている」のだ。「見える領域を超えている」のだけれども、それらの線や面が総合されて「見える形を統一する」のだ。つまり、「立方体」は、それを見る人間の頭の中にしか存在しない。
 これは、我々が「見る」ということの本質を言い当てている。目が見ているのではなく、目で見ているということだ。目は、眼球だけでは見ることができない。眼球と繋がっている脳が見ているのだ。脳は眼球には見えていない部分までをも補って見ているのだ。
 そして厳密に、これを突き詰めていくと、ひとの立場で見え方が違っているということだ。教壇に立つ先生を、30人の生徒が見たとする。先生は一人に違いない。しかし、その先生を見る30人の生徒は、生徒の位置によって、微妙に違った角度から見ているはずだ。つまり、先生は一人であっても、30通りの先生が同時に、そこに存在していることになる。「間主観性」という概念を使えば、一人の先生と30人の生徒の間には、「30人の先生」が存在することになる。決して、一人の生徒の視角を他の人が占めることができない。これをもっと敷衍して考えてみると、この世界にたった一人で存在する私は、私という視角でしかすべての出来事を捉えることができない。
 この視角で成り立つ世界を〈一人一世界〉と私は呼んでいる。この世界には、私しか「生きていない」という極端な言い方が、そこで成り立つ。厳密に言えば、私は他者になったこがないのだから、私以外を「生きる」ことができない。私以外を生きることができないのだから、この世界は私だけの世界なのだ。もっと言えば、「私が世界」なのである。
 ただ向こうにたくさんの他者が見えるので、あたかも、私自身もそのなかの一人に違いないと、脳が勝手に想像するのだ。それは脳が想像したことであって、本当は、私しか「生きていない」のだ。これはいつもお世話になっているユクスキュルの「環世界」という考え方である。一つの生物があれば、そこにはその生物にしか感じ取ることのできない一つの世界があるという考え方だ。これは人間だけでなく、昆虫や動物など、あらゆる生物が、そういう構造を持っていると言っている。
 ただ、この世界には私一人しか「生きていない」という考え方には、ものすごい御利益がある。それは、この世をどのように受け止めるかによって、世界がまったく変わってくるからである。この世の受けとめ方一つで、違った世界が味わえるのだ。だから、「私の受け止め」が、どういう構造で出来上がっているのかという吟味が大事になってくる。
 そんなことを言いながらも、やはり、この世界は一つであり、その中にたくさんの生き物が生きているのだと思っている自分も、確かにある。ただこれが「妄想」であると知っているかどうかが大事なところだ。私たちが安心して生きられる世界は、〈一人一世界〉以外にないのだから。これは他者と比べることのできない世界だから。
 そんなことを思っていたら、以前、読んだ、内山興正老師の『進みと安らい』(2018年)を思い出した。私は本をめくりながら、老師の中に流れる「〈真実〉のフォルム」と共鳴しながら、ひとり共感していた。その部分を少し引いてみたい。
「ところでわれわれ人間は、いつの間にか、この通じ合う(コトバの展開した)世界のなかに自己を投げこみ、自己をこの世界のなかの単なる一員としてしまいます。つまりわれわれが「生れる」ということは、この「一つの通じ合う人間世界という舞台の上に登場し、一員として加わる」ことであり、「死ぬ」とは、「この人間世界の舞台から降りる」ことだと思い、そして、この生れてから死ぬまでの間、この世界という舞台上にうごきまわることを「人生」というものだとしてしまうのです。」
 これは私の言う「一全世界観(一世界全生物包摂世界観)」のことを言っている。世界が一つしかないと決めて、その中に自分を入れ込んで考えるという発想だ。それを老師は「アタマの世界」と呼び、我々が生々しく生きている世界は、そんな世界ではなく、それを「自己ぎりの自己」という面白い言葉で語る。
「自己ぎりの自己」とは、これは師・澤木興道老師がよく言われていた、「屁一発だって人と貸し借りできぬ」自己のことである。この「自己」とは、「おのおのの自己の生命の間には、何んの通じ合いもなく絶対的に截断されておらねばなりません。」と内山老師は言う。
 これは私の言っている、「一切衆生の中の特殊存在としての自己」のことだ。しかし、この「自己ぎりの自己」は、それだけで終わらない。老師は、こう言う。
「この『自己ぎりの自己』『生命ぎりの生命』は、いかなる影像も結ばぬ『光ぎりの光』のように、ベタ一面の無風景ではないからです。そこが物理的光などと生命とチガウところで、『自己ぎりの自己』の中に『他』があって、この『他』と関係する『自己』だからであり、また『生命ぎりの生命』の中には『世界』があり、この『世界』と関係しつつ生きている『生命』だからです。」
 これは私の言う「一切衆生の中の典型としての自己」のことであり、「一切衆生を代表する自己」のことである。また、内山老師は、これを違う表現で、「ナマに生命体験される世界」、「ナマに生命体験する自己」という図でも示される。これこそ私が言っている〈一人一世界〉のことである。
 やはり、「〈真実〉のフォルム」は、禅宗とか浄土真宗とか哲学とかキリスト教を超越した、いや、超越というよりも、そこら辺に普遍的に遍在する何かなのだろう。