幻想としての「生」

ひとは、誰も「死」を知らない。生者は、まだ「死」を体験してはいないのだから、誰も「死」を一人称では知らない。それは〈真実〉である。
 それでは、その反対に位置する「生」はどうか。「生」など、わざわざ問う必要もないくらいに、誰でも、「生」を知っていると思っている。しかし、それはずいぶん大雑把な見方ではないのか。「私は生きている」というとき、何を分かっているのか。
「生きている」などと問わなければ、誰でも知っていることだが、一度、「生とは何か」と問うた途端に、それが何であるかが分からなくなると、アウグスティヌスをもじって言ってみたくなる。
 私たちは、間違いなく生きているに違いない。そもそも実感しているのだから、と。それを問うことなど誰もやっていない。むしろ、そんなことを問うてしまったら、生きることが停止してしまうほどに危険な領域のことなのかも知れない。「死」を問うことは、まだ常識的だが、「生」を問うことなど、まったくの非常識である。それは誰でも「常識」であり、「自明」であることだから、問いとして成立しないようにさえ思える。
 ただ、私はあえて、それをやってみたい。「生とは何か」と問うてみたい。それで、まず、それに対する答えを想定してみよう。一つには、「食べる」ことかも知れない。「固体保存」かも知れない。つまり、食(固体保存)と性(種族保存)が答えとして想定されそうだ。生理体としての身体を維持し継続させることが答えかも知れない。
 しかし、実際に呼吸をしているが、肺に吸い込まれた空気が、どのように分解され、我々に酸素を供給しているのか、それを誰も目で見ることはできない。
 何かを食べていても、その食物がどのように体内に摂取され消化され分解されていくのかを私は見ることができない。男性から放出さた精子が女性の胎内でどのように動きどのように排出されていくのか、あるいは受精されていくのかを私は目で見ることなどできない。厳密に見ていけば、生理的な動きを私はほとんど知ることはできない。知ることができないにも関わらず、私たちは、それを大雑把に「生きる」という一言で括ってしまう。それはあまりにも大雑把な見方ではないのか。
 生理体を厳密に見ていくと、ほとんど私たちの意識とは無縁の状態で営まれている。つまり、こうなると、「生きる」とはどういうことなのかを意識は知ることができないことになる。厳密に見ていくと、「生」は、まだ意識にとって未知未開の出来事なのではないか。
 それを「一人称の死」は体験できないのと同じように、「一人称の生」は誰も体験できないと言ってみたい。仏教が、それを「生死」と呼んだのは達見ではないか。私たちが考えている「いのち」は「死」を排除し、「生」だけにひかりを当てるが、本当は、それは「生」と同じように、「死」をも内容とした一つの出来事なのではないか。つまり、「死」も未だ知らず、「生」をも未だ知らずということだ。
 それにしても、意識は「楽をしたい」のだろう。意識というか、我々の「脳」が楽をしたいのだろう。だから、分からないことにレッテルを貼って分かったことにして済ましてしまうのだ。分からないことを、「分かる」というボックスの棚に仕舞い込み、もうそれ以上、問わないことにするのだ。問うことと問われることの両方を拒否し、その問いに背を向けてしまおうとする。
「一人称の生」は誰も体験できない、と言ったが、それをもう少し丁寧に考えてみたい。我々の生理体は、「考える」ということ以上に「感じる」ということを基礎にしている。「考える」こと以上に「感じる」ことのほうが、より原始的だ。まあ「感じる」は五根の機能である。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)が感じる器官だ。それらを統合しているのが「意識」である。人間は、つねに何かを意識している。意識していることも気づかないほどに意識している。意識していること自体をも、「自分は意識しているな」と意識化することができる。寝床で夢を見る如くに、意識はつねに意識下で蠢いている。
 親鸞は、こう言っている。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と。
 ここで親鸞は、「欲望、怒り、嫉み、妬み」を取り上げているが、これは「ひまなく」動くことはない。「怒り」も四六時中、怒りつづけることは不可能だ。これらは、瞬間的に起こるものであって、「ひまなく」起こることは不可能だ。ただ、それらの感情や欲望などが起こっていることを意識することができる。意識することができたから、親鸞は、ここにこのように書くことができた。
 焼き肉屋の前を通りかかれば、いい香りが嗅覚を刺激する。その途端に、かつて経験した焼く肉の匂いや味が思い出され、食欲がムクムクと湧き出し、食べたいという衝動が起こり、焼き肉屋の扉を開けるという行動へと繋がっていく。まず、最初に外界から五根への刺激が入る。次の段階で、欲が起こったり、あるいは欲が抑制されたりという段階に入る。その結果、欲が満たされれば満足、満たされなければ不満足が残る。それらもすべて一過性の出来事である。何だか、ひとの一生は、こんなことで終わるのではないかと、哀れさを感じてしまった。それはともかく、それは「ひまなく」ということにはならない。
 この「ひまなく」という煩悩を、唯識は「末那識」と見出した。「末那識」は「ひまなく」考えている意識であって、それは自我意識と一緒に起こると言う。自我意識を「我癡・我見・我慢・我愛」と分析している。つまり、「ひまなく」、つねに「我」という統一点で「大雑把に」意識する運動のことだ。
 夢は、無意識と意識の中間体で起こることだが、そこでも自我意識が動いている。夢の中で、バスの発車時間に間に合わず焦って走っている自分が見えたりする。それも自我意識が底辺にあって、焦っているのだ。だから、この「ひまなく」動いているものとは、「末那識」と言われる無意識領域にある自我意識なのだ。
 この「末那識」が、「自分は生きている」と無謀にも思い込んでいる。仏教が見出した「無我説」は、すべてのものに実体がないことを明らかにした。あらゆるものは、すべて関係性(縁起)で成り立っているのであって、一つとして根源的な因はないと見た。これは〈真実〉である。それは〈真実〉であるのだが、それを納得しないものがある。それが「末那識」だ。
 仏教は「因果説」が有名だ。すべてのものには因(原因)があり、それが縁(条件)によって、やがて結果となると説いた。しかし、これは物事の説明論理であって、〈真実〉とは乖離している。縁起説は、ものごとには決定的な因はないということだ。たとえ因と見たものであっても、その因には因の背景がある。因が因として成り立つための条件があったはずだ。それは縁である。だから、すべてのものは縁以外にはないというのが、本当の「無我説」だ。だから、物事の原因を、究極まで追求し結論づけることが、人間には不可能なのだ。
 しかし、それに異を唱えるのが、「末那識」だ。「我」というもの、つまり、根本の因という実体があるのだと無謀にも思い込もうとする正体だ。
 こうなってくると、「生」とは幻想であると言いうるのではないか。どこまで、実感した「生」を体験していたとしても、それを振り返ってしか、「生」と言えないからだ。五根で実感しているときは、一過性で過ぎていくのだが、それを後から振り返ったところでしか「生きている」とは言えないからだ。それは意識化であり、対象化であり、統一化である。それを根源的に実体視させる作用が、「末那識」だ。この「末那識」が捏造しているのが、「生」という幻想ではないか。
 ここまで見てくると、「生」の方向性はどうなるのかと問いたくなる衝動に目がいく。人間は、「これからどうする」という関心から逃れられない。「生」が幻想だとすると、私が「生きている」ということに、どういう意味があるのかと問いたくなる。
 結論を急げば、〈無・意味〉なのだ。それも、絶望としての「無意味」ではなく、救いとしての〈無・意味〉である。そもそも、「生」に方向があるわけではない。仏教を仏道と言ったりするが、「道」という言葉は生きる方向をイメージさせる。しかし、そんな「道」も幻想的なイメージだ。
 ディズニーアニメの「不思議の国のアリス」に「道」について暗示的なことが描かれていた。物語の終盤で、アリスは奇想天外なエピソードを経て、ようやく自宅へ帰る道を見つけて安堵して、そのピンク色の「道」を歩いて行く。すると、その道の延長線上を見ると、向こうからライオンがやってくるのが見える。ところがライオンは、その道を消しているではないか。そのライオンの髭はデッキブラシのようになっていて、アリスが歩いて行こうとする道をサッササッサと消している。消してしまうので、「道」は見えなくなってしまった。とうとうアリスの目の前まで消し終わると、アリスを避けて後ろに回り、今度はいままでアリスが歩いてきた道をサッササッサと消していく。そして、とうとう道は消されてしまい、アリスの立っている場所しかなくなり、アリスは途方に暮れる。
 これは、実に「道」の本質を言い当てた話だと思い、印象的に記憶している。「道」は自分が歩いて行くための方向性を示している。だから「道」が見付かれば、「いま・ここ・私」が安定する。このまま進んで行けばよいのだという安心感が与えられる。しかし、このライオンは、自分が進むことができると思って安心していた「道」を消してしまうのだ。このライオンは阿弥陀さんの化身ではないかと思った。
 人間が考える「道」は、目的地が目の前にはない。遙か向こうに目的地を設定するから「道」なのだ。しかし、このライオンは、その「道」が幻想だと言わんばかりに、すべてを消してしまう。
 実は、「道」の目的地は、目の前の、一瞬先にあることを突きつけるのだ。これが「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」(「浄土和讃」)という和讃の深意ではないか。これは目の前に目的地を突きつけるばかりではない。その目的地には、遙か昔に、到着していたと言うのだ。それも「十劫の昔」に。
 さあこれから「道」を歩いていこうとしているものに向かって、お前は目の前に、もうすでに目的地に到着しているのだと突きつけ、それは遙か昔に、すでに到着していたのだと教える。これが「本願成就」という出来事だ。「本願成就」という出来事は、もうすでに目的地に到達していることを述べている。「もう済んでいた」のだ。
 だから、もはや「道」は必要ない。どこかに行く必要がないのだから、「道」は不要だ。もう目的地に着いているのだから。
 ところが、その目的地に到達した途端に、不思議なことが起こる。目的地に到達した途端に、「道」の初めに帰される。初めの第一歩に帰される。つまり、まだ目的地に到達していない原初に帰される。ここに「本願」というものが生まれる。「本願」とは、目的地に到達させようとはたらく原動力のことだ。「本願」は「これから」と促すものだが、「本願成就」は「すでにして」到達していると教えるはたらきだ。「本願」は、「本願成就」から生まれてくるのだった。「すでにして」から「これから」が生まれるのであって、「これから」が「すでにして」を生むのではない。因位から果位へは常識的だが、果位から因位が生まれるのは非常識だ。「本願成就」から「本願」が生まれるという考えは非常識極まりない。
 親鸞が「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第二条)と言えたのは、この「本願成就」に出会ったからではないか。「地獄」が決定的な自分の居場所であると言えるのは、「本願成就」という到達点に遇ったからなのだ。だから、もはやどこかに「往生する」などという観念は砕かれている。そこに到達しなければ、何事かが成就しないなどという欲求不満が完全に解消されている。菩薩が上位を目指して求道するなどという欲求不満は消されている。もう目的地に到達しているのだから。それも求道を志した遙か昔に到達していたのだから。自分は目的地を求めて、あちこち彷徨っていたように思ってきたが、それは原点から逃避していただけだったのだ。求めることが逃避することになっていたとは、何という悲劇か。
 気がつけば、遙か昔に到達していた。到達したから、こそ「いま・ここ・私」が未到達の原初へ帰ることができた。目的地に到達したことが、未到達を完成させたのだ。もっと言えば、「救われたという原点」があって、初めて「救いのない原初」へ帰ることができたのである。それが「地獄は一定すみかぞかし」である。
 目的地を目指していたときは、自分の周りに目が行かない。目的地ばかりを探しているので、周りに目をやっている余裕がない。しかし、目的地に到達していたとなると、「いま・ここ・私」が未知未開の場所として蘇ってくる。何事をするにしても、それは、「万劫の初事」に返されてしまう。それが、「存在の零度」という場所だ。まあ、人間は決して未来を知らない生き物なのだから、それは当然のことなのだ。
「生」が幻想だとなると、その「生」をいかなる物語として受け取るかによって、そのひとの「人生観」は大きく変わる。私は、それを「絶望道」から「往生道」へという物語のシフトチェンジとして考えている。