若松英輔さんの『14歳の教室』(NHK出版)に、17世紀に生きたドイツの作家・ノヴァーリスの詩が紹介されていた。
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
これを読んだとき、私は、これは阿弥陀さんのことを詠っているのだと直観した。別にノヴァーリスが阿弥陀さんのことを知っていて、この詩を書いたという意味ではない。ノヴァーリスが、何をイメージしてこの詩を詠んだのかは分からない。まあ、分からなくてよいのだ。果たして、ノヴァーリス自身にも分からないのかも知れないから。
ただ、この詩を私が読んだとき、「これは阿弥陀さんのことだ」と、私に感じられたということだ。だからノヴァーリスの意図するところとは違うのだろう。しかし、それはどちらでもよいという思いもある。それはノヴァーリスの深層と私の深層、もっと言えば人類の深層からあふれ出してきた詩だからだ。その人類の古層から噴き出してきたものが、たまたまノヴァーリスに、そのような表現を採らせたのだろう。
私たちに五官というインターフェースがなければ、環境を環境として捉えることができない。視覚は「形(形状)、色(色彩)、明るさ(明暗)、動き(運動)、立体感」を捉えて環境とする。聴覚は「音」、嗅覚は「匂い」、味覚は「味」、触覚は「質感、温度、皮膚刺激、形状」を捉えて環境とする。
それらのインターフェースを介して受け取った情報そのものが「環境」だと受け取っている。つまり、「世界」だと思って生きている。しかし、ノヴァーリスは、五官で感じる世界が「感じられる世界」だとすると、その「感じられる世界」は、人間だけに感じられた恣意的世界であり、〈真実〉の世界ではない、と言っているようだ。
五官では、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」に触れることはできないはずだ。でも、この五官の限界のところに、実は、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」に「さわっている」とノヴァーリスは言う。
それは何も、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」が在ると言いたいのではない。それを「在る」と言ってしまえば、言語矛盾だ。もし人間には五官以上のものがあって、それら「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」が「在る」と言ってしまえば、それはオカルトだ。霊媒師や超能力者の意味世界が浮上してしまう。
だからそういう意味ではないのだ。人間が五官で感じている世界が、そっくりそのまま恣意的現実だとえぐり出され、決して「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」には触れ得ないのだという認識以外にはない。この触れ得ないという世界から、一歩も動いてはダメなのだ。仏教語で補えば、「方便世界」以外を人間は生きることができないということだ。
この「触れ得ない」という根源的座りが、そっくりそのまま「さわっている」ことにならなければならない。「触れ得ない」というのは、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」の壁に触れている感触だ。そもそも触れ得ないのだから、感覚で感じることなどできない。これは矛盾したことを述べている。
ただ、〈真実〉を表現するときには、必ず「矛盾」で表現されなければならない。「矛盾」以外では〈真実〉を述べることはできない。「矛盾」は、間違っているからダメなのだと感じるか、「矛盾」こそが〈真実〉だと感じるか、それは「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)にまかされている。
私たちが、「阿弥陀さん」というメタファーを使うのも、それと同じ構造をしている。阿弥陀さんは、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」である。そもそも「阿弥陀」という言語が矛盾語だ。「阿=無」、「弥陀=量」だから、「量を無と否定すること」という意味だ。「量」とは、我々の五官で量られる世界のことであり、それを完全に「無」と否定することだから、人間には決して分からないことを表現している。つまり、「阿弥陀さん」など、決して人間には、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」なのだ。
このように人間には触れ得ないものを、「阿弥陀」と、あたかも人間が触れ得るような言葉で語るのだから騙されてはならない。「阿弥陀」などというものが在るのではなく、「阿弥陀」など、人間には決して感じることはできないという意味で使っているのだ。つまり矛盾語であり、否定語なのだ。
この否定語は、人間には決して触れ得ないという絶対否定を表すのだが、この否定が媒介となったときにのみ、「ある」の根拠となるのだ。「ない」が絶対否定となってはたらいたときに限り、「ある」を否定しない。むしろ「ある」を成り立たせる根拠としてはたらき出す。
仏教は、ものごとは「諸行無常、諸法無我」であり、すべては因縁(関係性)であり、実体的なものは一つもないと語ってきた。これは「ない」の側面を表現している。だから、どうしても仏教は「暗い」とか、「冷たい」という印象を持たれる。しかし、それは絶対否定を媒介にしないことの現われだ。むしろ、絶対否定を媒介にすれば、「ない」は「ある」ことを成り立たせている存在の故郷となる。
そもそも、私とまったく同じ体格と容積の人間がここに存在したら、私は存在できない。そいつが存在しないことによって、私は辛うじてここに存在できる。「ない」から「ある」ことができる。つまり、「ない」は「ある」を成り立たせる根拠となるのだ。
この世には、これと同じ物体が二つ並んでいたら、二つはぶつかり合って存在を占めることができない。いつも引用する、まど・みちおさんの「リンゴ」が、それを示している。
リンゴを ひとつ
ここに おくと
リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで いっぱいだ
リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない
ああ
ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ (『まど・みちお全詩集』)
これはリンゴを詠っているようだが、本当はまど・みちお自身の存在を詠っているのだ。たった一つのリンゴがあるとは、唯一無二の自己存在を言っている。この唯一無二の自己存在は、単なる一個の孤独な我を述べてはいない。言えば、唯一無二存在以外は、この世に存在していないということだ。「この 大きさは この リンゴだけで いっぱいだ」が、それを示している。まあ私の言う〈一人一世界〉のことだ。
次の、「リンゴが ひとつ ここに ある ほかには なんにも ない ああ ここで
あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ」は、何度読んでも感動するところだ。まどさんの目の前には、たった一つのリンゴが置かれている。地球上で、このリンゴは他のリンゴと同じ場所を占めることができない。つまり、ここで、「あることと ないことが まぶしいように ぴったり」と重なっている。
先ほども述べたように、この地球上では、同じ物体が同じ場所(空間)を占めることができない。ここに一個のリンゴが「ある」ということは、このリンゴと同じだけの「ない」が、そこになければならない。この「ない」リンゴを見ることはできない。「ない」のだから。しかし、まどさんは、この「ない」リンゴを見ている。「ない」リンゴがあって、「ある」リンゴに自分の場所を譲り渡している。「ない」リンゴが拒否すれば、「ある」は成り立たない。辛うじて、「ない」リンゴが、「ない」リンゴと同じだけの大きさを、「ある」リンゴに譲っているから、「ある」リンゴが奇跡的に「ある」ことができている。つまり、「ない」リンゴと、「ある」リンゴとがぴったりと重なり合っている。これをまどさんは、「まぶしいように」と表現している。存在はまぶしいのだ。
「まぶしい」というのは、「ある」と「ない」が固定していないことを示している。「ある」は、つねに「ない」を連想させ、また「ない」はつねに「ある」を連想させる。一つの存在は固定して成り立っていない。つねに「ある」と「ない」とが交互に反照され「まぶしさ」を放っている。言わば、存在の否定と生産と同時に激動する場所、これこそが「まぶしい」と言われる所以である。
ノヴァーリスに戻れば、「みえるもの、きこえるもの、感じられるもの、考えられるもの」が、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」と、まぶしいようにぴったりと重なり合っていると言ってもよいのだろう。
ノヴァーリスは言っていないが、ここには、人間が見えている世界だけを〈真実〉の世界だと傲慢にも受け取っていることへの懺悔が張り付いている。この懺悔から染み出してきたところにあるものが、「みえないもの、きこえないもの、感じられないもの、考えられないもの」を「観じ」取らせているのだろう。