「立処皆な真なり」の構造

 人間は「一心」が欲しいのだろう。決して周りに振り回されない根拠のような「一心」が。しかし、「一心」になろうとした途端に、「ふたごころ」に分裂してしまう。「一心」になろうとするまでは、「一心」だったものが、「一心」になろうとすると、二つに分裂してしまう。「一心」になろうとする自分と、「一心」になれていない自分に。
「一心」になっていない自分に気づけば、くよくよと周りの問題に拘泥してしまう。それに気づいてしまえば、「いかんいかん、そんな問題に振り回されては」と思い、こころを一つにしなければ、と我に返ろうとする。
 いまでは見なくなったが、昔は、たまに空を飛んでいる夢を見た。飛ぶと言っても、たかだか十メートルくらいの高度だ。まあ電柱くらいの高さを飛んで、街を眺めている。ふわふわと飛びながら下界を眺めるのが、とても気持ちが良いのだ。だが、しばらくするとどういうわけか、高度が徐々に下がってくる。これではいかんと思い、上昇しようともがくのだが、もがけばもがくほど、高度は下がっていく。もうじき地面に足が着きそうになると、何だか知らないが、私を捕まえようとする者が現れる。それに捕まっては大変だと思い、何とか上昇しなければと焦る。しかし、焦れば焦るほど、身体が力み、上昇できず、逆に下降してしまう。それで、何とか力みをなくそうとこころ掛けるのだが、それがうまくいかない。
 空を飛ぼうなどと考えてはダメなのだ、空を飛ぶという観念を忘れてしまわねばダメなのだと自分に言い聞かせるのだが、それがなかなか上手くいかず下降して地面に着いてしまいがっかりする。こんな夢をたまに見ていた。
 空を飛んでいるときは、とても気持ちが良い。しかし、空を飛んでいることに気づいてしまった途端に、飛べなくなる。ちょうど、「一心」に気づくまでは「一心」で生きているのだが、「一心」に気づいてしまった途端に、「ふたごころ」に分裂してしまうのと似ている。
 庭に生えている源平桃は、「一心」を生きているように見える。木は、自分の意志で移動することはできない。種が落ちた場所、根を生やした場所から一歩も動くことができない。雨の日も日照りの時も、風の日も雪の日も、あの場所から一歩も動かない。動かないのか、動けないのか、動こうとしないのか。それは分からないのだが、あれを忍耐強さと感じてしまう。
 それに比べて、自分は、自分自身の前から動いて、どこかへ行こうとしている。自分自身の前から逃げているように感じてしまう。逃げて、何処へ行こうとしているのか。それすら分からないのだが、逃げて逃げて、何処かに行こうとしていることだけは分かる。おそらくそれは、この世に誕生した宿業の場所から逃げようとしているのだろう。人間は「動物」と言われるように、「動く生き物」だ。動けるものだから、何処にでも行ける。だが、それは自分の居場所から逃げようとしているだけなのかも知れない。人間は一生の間、自分の居場所から逃げるだけで終わっていく生き物なのかも知れない。
 だから自分の居場所に対して、「NO」を言い続けている。その場所を引き受けることができない。「NO」を言い続ける。別にここより他のどこかに「YES」と言える場所があるはずもないのだろうとは薄々感じている。それは分かっているのだが、自分の居場所に対して、「NO」を言い続けてしまっている。
 それは、「理想」などを持つから、「NO」を言わなければならないのだろう。以前にも書いたが、『臨済録』の「随所に主と作れば、立処皆な真なり。境来たるも回換すること得ず。」が魅力的だ。意味は、「君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。」(岩波文庫)である。
「主人公」とは、その場以外を自分の生きる場所とせず、その場所をスッと引き受け、むしろその場所を愉しむというような主体性を意味しているのだろう。蓮如上人の「南無阿弥陀仏の主になるなり」(『蓮如上人一代記聞書』)と同じことを意味していると思われる。
 この「主人公」は、目の前の場所に対して、「NO」を言わない。「NO」を言うから、何処かに自分の居場所を探さなければならなくなる。この「NO」が逆転して「YES」と言えれば、「立処皆な真なり」となるのだろう。この「立処皆な真」という言い方がグッとくるところだ。「立処皆な主なり」ではなく、「立処皆な真」である。
「立処皆な主なり」と言ってしまうと傲慢な感じが残る。自分の立場を自分が主人公にして生きているのだと自己主張する感じが残る。しかし、「立処皆な真」と言えば、その傲慢さが消えている。この「真」は人間が占有することのできないところのものだからだ。臨済さんの気持ちを推し量ってみると、こうではないか。「立処皆な真になったらいいなあ、なるはずなんだがなあ。いや、きっとなるに違いない。ワシは知らんけど」と。まあ臨済さんはどうだったのか、本当のところは分からない。でも、親鸞ならそう言ったのではないかと、憶測してしまう。
「立処皆な真なり」と言いたい欲求はあっても、そこに我慢があってはダメなのだろう。我慢して「NO」を「YES」と思い込もうとしてもダメなのだろう。いくら、表層で、そう思い込もうとしても、深層は、そのことを納得してはいないのだから、「YES」にはなっていない。
 まあ、身は「YES」と引き受けているのだが、こころが「NO」と言ってしまうのだ。
こころは、いつまで経っても、「NO」としか言えないのだろう。親鸞の場合、そこに阿弥陀さんが介入してくる。そして「NO」と言っているこころを「対象化」させる。「NO」を生むこころが「利害損得心」という「煩悩」だと暴き出す。暴き出された自己が確認できるのは、そこまでだ。
 そこから先、つまり、「立処皆な真」になるかどうかは「おまかせ」ということになる。だから、もし自己が「立処皆な真なり」と言えば傲慢になってしまう。自己は、どこまでいっても「NO」としか言えないからだ。ただ、「NO」と言っているのが「煩悩」だと「対象化」された人間を他者が見たとき、あたかも「立処皆な真」になっているなあと見えるだけだ。だから、この「真なり」は自己の主張ではなく、そのひとを周りで見た他者が感じ取る光景なのだ。
 この「対象化」という作用を促してくるのが、阿弥陀さんというメタファーなのだ。自己が自己を反省、内省する「対象化」ではない。自己が反省、内省するのは、必ず、「煩悩」で「対象化」する。つまり、深層の自我愛が脚色してしまうので、正しく自己を反省、内省することはできない。自我愛が脚色すれば、劣等感か優越感に汚染させる。
 だから、自己は自己をありのままに見ることなどできない。そこに阿弥陀さんが介入してくる。阿弥陀さんが介入すると、自己が自己のありのままを見ようとするこころが断念させされる。つまり、自己が自己をありのままに見ることは不可能だと覚める。この不可能だと覚めることを、「おまかせ」と呼ぶのだ。
 自己の本当の姿など、自分には見ることができない。こうなれば、その場所は、阿弥陀さんに与えられた場所に変わる。それを辛うじて「立処皆な真なり」と言いうることもできるのだろう。傲慢極まりのない言い方だと重々知りつつ。そして、自己のありのままの姿は自分には見ることができない、阿弥陀さんのみが、ありのままの姿をご存じなのだと開き直ることができる。
 身は「立処皆な真」なのだが、こころが、その場所を引き受けられないだけなのだ。身とは、阿弥陀さんのことだったと、驚嘆することだけがこころには許されてあるのだ。