「信ずる必要がない」とは

安田理深先生が、こう言っている。
「すべて仏に助けてもらうといっても、信ずることだけはこちらがやらねばならない。信ずることまでもお任せしたら、何もないことになる。それはお任せしないのと同じである。だから、やはり人間の努力は何もいらぬという本願であっても、本願を信ずるということだけはないと、何もいらぬという本願は成り立たぬわけである。」(『安田理深選集』第12巻p237)
 この文章を読んで、なるほどそうだなと思う反面、そうだろうかという思いも起こった。曽我量深先生も、「助ける助けぬは如来の責任、助かる助からぬは衆生の責任」と書かれていたので、やはり、すべてはお任せだからと言っても、「信心」だけは人間がやらねばならないことであり、仏にお任せできないことなのだと言う。
 これも確かに、「〈真実〉のフォルム」に適った表現だと思われる。
 ただ、私は、「〈真・宗〉は『信ずる必要のない』宗教」などと言っているので、曽我・安田両先生と矛盾するようだが、それはそうではない。
「信心が必要だ」と思っているひとにとって、「信心」とは未だに自分には実現してないことになっている。まだ実現していないから、これから「信心」を確立しなければいけないと思い込んでいる。その場合の「信心」とは、これから将来に向けて自分が努力して獲得しようと考えている「信心」である。これは「自力」という発想であり、そういう「信心」の扱い方は必要ないと否定しているのである。
 だから、「信心」が必要だ、「信心」が欲しいと心掛けている間は「他力の信心」になっていない。その発想が転換されて初めて「他力の信心」となる。
だから、「信ずることまでもお任せし」できたのが、「他力の信」ということになる。自分が信ずることができるはずだという欲望が捨てられたことが、「他力の信」である。だから、「信ずる必要」はないのだ。
 曽我量深先生が、「助ける助けぬは如来の責任、助かる助からぬは衆生の責任」と表現されたとき、曽我先生が想定している読者は、いかなるものだろうか。それは、「真宗」は「絶対他力」なのだから、自分は何もすることはないのだろうと思い込んでいる読者ではないか。すべてはお任せなのだから、「信心」すら要らないと考えている読者だろう。その読者に向けて、いやいや「助けるかどうか」は阿弥陀さんの課題だが、「助かるかどうか」は自己の問題なのだと表現したのだろう。
 まあそう言われたとき読者には、どういう反応が起こるだろうか。いくら「絶対他力」だとは言っても、人間のすることが残っているのであれば「絶対」ではないではないか、という反応も起こるだろう。これも一理のある反応だと思う。
 まあこういう読者に向けて「〈真・宗〉は『信ずる必要のない』宗教」という表現が用意されているのだ。〈真・宗〉は「絶対他力」だから、その「信心」すら必要のない教えだと言ったのだ。「信心」が必要だと考えている限り、その「信心」は「自力の信心」になってしまっている。それが破れて「信ずる必要がなかったのか」となって、初めて「他力の信心」となるのである。
 しかし、「自力」の発想の持ち主は、それにも納得しないだろう。いくら「信ずる必要がない」と言ったとしても、やはり「他力の信心」を必要としているじゃないかと批判することができるからだ。
「自力」の発想は、底なしの疑いだからきりがない。「自力」の発想には、〈いま〉がないし、「自分」がないからだ。つねに、「~これから、~これから」と未来に何事かを欲望する発想だから、〈いま〉に安心がないのだ。まあ、〈いま〉に安心できないから、未来に何事かを欲望してしまうのだ。「信心」すら欲望の対象にしてしまうのだ。
 親鸞にとっての「他力の信心」とは、つねに「信ぜよ」という阿弥陀さんからの命令なのだ。だから、常に自己の外から、向こうから自己に向かってはたらきかけてくるというイメージだ。自己が、その命令を聞いて、「信ずる」とか「信じた」と過去形で語ることの許されない出来事である。
 つまり、「信ずることができるはずだ」という欲望が捨てられた世界である。そしてこちらには何も残らない状態が実現する。こちらが空っぽになったとき、その空っぽを埋めて下さるのが阿弥陀さんだ。いままで「自分」だと思い込んでいた思いが破られ、「自分」などという実体はどこにもなくなり、すべてが阿弥陀さんの展開した世界に変わる。
 こうなると、「さあ、これから信心を獲得するぞ」などという無理な重荷から解き放たれ、「無信」が実現する。この「無信」というか、「非信」という安心した世界が与えられる。違った言い方をすれば、何も信じる必要がなくなったのだ。
 ここまでくれば、こう言ってもよいだろう。「信心」とは、阿弥陀さんのすることであって人間のすることではないと。つまり、「信心」とは阿弥陀さんの「本願」のことだったのだ。「本願」も「信心」も同じ出来事の表裏表現なのだ。それが阿弥陀さんの側にあるとき「本願」といい、人間の側にあるとき「信心」と言う。それも便宜上、つまり、人間に理解しやすいように分けて言っているだけであって、本当は、阿弥陀さんだけの世界なのである。「絶対他力」だから。
 人間にとっては、両方とも、人間の外からくる「命令」であって、ひとつも内部のことにならない。ひとつも内部のことにならないことが幸せなのだ。内部のことになってしまったら、〈真・宗〉ではなくなる。それで「真宗」の僧侶は、全然、「お坊さん」らしく見えないのだろう。世間のひとから見れば、それは「仏教」でも「宗教」でもないのではないかと見えるようなことだからだ。これが「肉食妻帯」という宗風の真骨頂だ。
「牛盗人と呼ばれても、仏法者と見えるように振る舞うな」(『改邪鈔』取意)と親鸞に言わせたはたらき、それこそが〈真・宗〉のいのちであろう。それは何も「仏法者」の振る舞いをやめろと命じているわけではない。それはその時の「自己認識」を問題にしているのだ。つまり、「自己」を「仏法者」であるとか、「信心を得た者である」と認識したときの問題だ。その認識は、どこかで自分を「一般人」より上に位置づけ、それに甘んじているのだ。それは、自分で自分を救おうとしている状態だ。この発想を犯罪者よりも罪が重いと批判しているのだと思う。
 自分は「自己」をどのようなものとして受け止めているのか。自分が考える自己とは、「自分が考えた範囲内の自己」でしかない。しかし、「自己」は「自分が考えた自己」以上のものである。この身体は自分が生み出したものでも、作ったものでもないではないか。つまり、阿弥陀さんだ。これを自分の「自己」だなどと思ったら大間違いだ。そのことを暗示しているのが、親鸞のその言葉だろう。
 そこまで行けば、本当は、自分には「主語」がないのだ。「私は…です」と語ることが許されない。そもそも自分にとって「自己」とは得体の知れないものだからだ。こうなると、自分は、「述語」にされてしまう。「…である私」となる。まあ、阿弥陀さんの言いなりになっている私ということになる。
 そうは言いつつ、日常は、やはり、自分を「主語」として、この世では振る舞っている。これこそ「謗法の徒」ではないか。
 ここまで書いてきて、いま、ここに、「謗法の徒」と対象化して安心している自分を発見した。やはり、「書く」という行為は、どこまで行っても、自己肯定と自己弁護の罪作りなのだろう。それだからといってやめられるかと言えば、それもできないでいるだけなのだ。