正対という形が要求するもの

「正対」とは、「対象にまっすぐ向くこと。まともに向き合うこと。」と広辞苑にはあった。
因速寺では毎朝8時20分から、「お朝事」といって、朝のお勤めが始まる。どなたでも、参加大歓迎だ。
外陣には子どもたちが座り、小生は内陣の祖師前に座る。祖師前とは阿弥陀さんに向かって右側になる。
外陣は阿弥陀さんに「正対」して座るのだが、小生は内陣に座るので、阿弥陀さんに対しては斜め90度の形で座ることになる。
だから、阿弥陀さんの横顔しか見えない。この形にいつも違和感を感じていた。一番、嬉しいのは、やはり外陣の中尊前の場所だ。
そこからだと阿弥陀さんが真正面に見え、阿弥陀さんとの対話が弾む。ところが祖師前では、それが起きにくい。
阿弥陀さんの視線と自分の視線が合わないからだろう。この「正対」という形が、我々に要求してくるものこそ絶大なのだ。
そう言えば、禅キリスト教を提唱されている佐藤研先生も興味深いことをおっしゃっていた。座禅をするとき、別に仏像を置くという決まりはないのだが、仏像を置いて座禅するのと、置かないでするのとは違うのだそうだ。仏像を置いた方が、すぐにこころの深部に降りていくことができるそうだ。つまり集中力が違うのだろう。それを聞いて、我々が阿弥陀さんと「正対」することの意味深さが知らされた。
別に仏法には阿弥陀仏などという仏像は必要ないし、まして人形のかたちに表現することなどできないことだ。それは真実なのだが、やはり「人間」というもののために、ああいう形が必要だったのだ。仏法は「人間」には「人形」の形をとって、「人間」を超えるものを教えるのだ。阿弥陀さんとの「正対」は、無尽蔵に仏法の味わいを生み出して下さる。