信仰は「一心不乱」だと言うけれど、「一心不乱」になろうと思っているということは、「一心不乱」になっていない証拠だ。だから「一心不乱」になろうとするのだ。
本当に「一心不乱」になれたら、それはそれで幸せなことだろう。「統一教会」に多額の寄付をされたかたも、おそらくそうだったのではないか。「一心不乱」になって信仰を貫けば、必ず得るものがあると思って「一心不乱」に信仰したのだろう。
ただ、「一心不乱」になろうとするということは、つねに「一心不乱」になれていない自分の発見でもある。「一心不乱」になれていない自己を見つけては、これではダメだと叱咤し、なおさら「一心不乱」にならねばと自己を叱咤したのだろうと思われる。「一心不乱」になろうとする途中で、「これでよいのだろうか」と躊躇うこともあったはずだ。しかし、躊躇う自己が見付かっては、「それではダメだ。もっと励まなければ」と自己の信仰に拍車を掛けたのだろう。そこまで行けば、もはや「疑う」ということは、許されない。許されないばかりか、いままで費やしてきた自分の努力の一切がムダになったしまうのだから、そんなことは受け入れられない。これで、一層、いわゆる信仰の泥沼にはまっていくのだろうと思われる。
おそらく親鸞も、その泥沼を見てきたひとだと思う。「一心不乱」とは言いながら、結局、自分の思い描いた世界の中で、右往左往していただけのことなのだ、と。ここに「自分」と「自分以外」という線引きが、ものすごく大事なことだと思われる。これは、「自分の思い描いた世界」、それは「自分の思い描いた世界ではない世界」と線引きできるかどうかだけが問題なのだ。つまりは、「南無」と「阿弥陀仏」の線引きができるかどうかだ。
目を開ければ、自分の目の前には、いつでも「自分の思い描いた世界ではない世界」が展開している。
太陽
月
星
そして
雨
風
虹
やまびこ
ああ 一ばん ふるいものばかりが
どうして いつも こんなに
一ばん あたらしいのだろう (『まど・みちお全詩集』)
と詠んだまどさんの眼は、それを知っている。
人間の眼には、「自分の思い描いた世界ではない世界」が見えているのに、それを「当たり前」の景色に変えてしまう。阿弥陀さんの世界が展開しているのに、それを疑っている。疑っているなどと、本人は思っていない。だが疑っているのだ。疑っているから、見えているのに、そこに感動が生まれない。
まどさんの眼は純粋だ。人間が忘れている阿弥陀さんの世界を、いつも教えてくれる。一瞬たりとも、人間が、未だに生きたことない時間に接しているのに。
「生きる」も「死ぬ」も、「自分の思い描いた世界」の中に閉じ込めてしまう。そんなことは、もうすでに分かったことにして。でも、本当は分からないのだ。分からない世界だから、そこに驚きと感動が起こる。
本当に「一ばん ふるいものばかりが(略)一ばん あたらしい」のだ。今朝も明けの明星が空にあった。顔を上げてみれば、「一ばん ふるいものばかり」ではないか。何十億年という時間から訪れる星の煌めき。目は遠くのものを見ている。ところが、それが一気に自分に跳ね返ってくる。金星は、「お前はどうなんだ」と迫ってくる。そして、自分の身体にまで接近してくる。金星は、こう言うのだ。「私も何十億年、お前も何十億年」と。確かに、私のいのちが私にまで成ってきた時間と金星が金星に成ってきた時間は同じだったのだ。「一ばん ふるいものばかりが (略)一ばん あたらしい」のだ。
手を握ろうとすれば握ることができる。パソコンのキーを打とうと思えば、打つことができる。歩こうと思えば歩くことができる。自分の身体は、自分の思いのままに動かすことができる。何十億年を要した身体は、「思い」に忠実に従ってくれる。それは「従ってくれている」のである。そうなってくると「思い」は身体を奴隷のように酷使する。「思い」のとおりに動くから、傲慢に振る舞い出す。あたかも「思い」の所有物のように見下す。
看護婦さんが病人の背中を優しく撫でる手も、またナイフで女性を刺し殺した手も、同じ人間の手であることに変わりはない。「思い」は手を、「思いどおり」に動かすことができると思い込んでいるが、そうではない。手は、何も言わず、黙って、「思い」に従ってくれているだけなのだ。
しかし、だ。その「思い」すら、実は自分を超えているのではないか。「思い」も自分の思うように思っているわけではない。「絶対他力」だから、思わされて思っているのだ。自由に思っているように思えて、実は「自由に思っている」と勘違いさせられている。「絶対他力」だから、次の瞬間に何を思うかは、自分に知らされていない。「絶対他力」だから、恐ろしい。優しい手にもなれば、殺人の手にもなる。自分の「思い」でコントロールすることができないから。そこに「自重」という精神が生まれる。
そうか「思い」すら、「一ばん ふるいものばかりが(略)一ばん あたらしい」のだ。
憂鬱な思い、嬉しい思い、悲しい思い、何とも思わない思い。それらの「思い」も尊い。何十億年という時間が掛からなければ生まれてこない「思い」だったから。
「する」のではなく、「される自分」、「されている自分」だったのだ。まあ、こんなふうにも言えるのではないか。阿弥陀さんが「思わせ」、阿弥陀さんが「見させ」、阿弥陀さんが「動かしている」と。自分はその阿弥陀さんの展開された世界を、〈いま〉、初めて体験させていただいているのだと。そうなると、「一心不乱」も、そのようにさせられていたということなのだろう。親鸞は、阿弥陀経に書かれている「一心不乱」を、第20願の世界だと受け止めた。つまり、方便の願だと。方便だから、「〈真実〉に適っていない、よろしくないこころ」と見た。このこころは捨てられなければならないこころ、と。人間を〈真実〉の奴隷にしてしまうこころだから、危ないこころだと見た。
この「見た」ということが起こればよいのだ。見えれば「一心不乱」と距離を取ることができる。私たちには、「見えている」のだが、それが「見た」ことだとは思っていない。「見えている世界」は、無色透明な世界であり、誰が何と言おうと、そのように「ある世界」だと「見えている」。しかし、それは違うのだ。「見えている」世界は、間違いなく、あなたが「見た」世界なのだ。そこに「見る」という人間が介在しなければ、「見えている」世界は、どこにも成り立たないのだ。
あなたが「見た」世界の〈真実〉は、「自分の思い描いた世界ではない世界」なのだ。阿弥陀さんの世界なのだ。そこに「自分の思い描いた世界」と、「自分の思い描いた世界ではない世界」が、初めて分裂する。これが「南無」と「阿弥陀仏」の成立である。
親鸞に、このことが明らかになったとき、彼は「果遂の誓い、良(まこと)に由あるかな。」(『教行信証』化身土巻)と感動的に吐露したのではないか。これは統一教会に多額の献金をしたひとだけの問題ではなく、まさしく私の問題だったのだ。そこまで通底している問題なのだ。
「果遂の誓い」とは、そのことに気づかせようと、実に微に入り細に入り、懇切丁寧に私に取り憑き、とうとう、その構造を見えるようにまでさせていただいたことへの謝念の表白である。それが「良(まこと)に由あるかな。」という、底なしの感嘆に表われている。
これが見えれば、私を「一心不乱」にまでさせていただいたことへの感謝が生まれるはずだ。「一心不乱」になろうとしたことも、そしてそれに挫折したことも、すべては阿弥陀さんのお手回しだったのかと、落ち着くことができる。「一心不乱」なろうとしていたことも「他力」であれば、それに挫折したことも、さらにその構造が見えたことも、すべては阿弥陀さんのお手回しだったのだ。
「見えている」世界は、「思い」を超えた世界をいつも「見ている」世界なのである。なんだか、当たり前のことをぐだぐだと記しているようで、親鸞のこの言葉が浮かんで来た。「おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。」(『唯信鈔文意』)