ただほれぼれと

まったく偶然に、何の因果関係も脈絡もなしに出遇うものが仏法だ。人間は「時間」(過去・現在・未来)という幻想を生きるものだから、ついつい「偶然」だとか「必然」だとか言いたくなる。寺に生まれたのだから、仏法に関心を持つのは当然だと邪推する。しかし、そんなものはすべて空言だ。
 親鸞が、阿闍世に起こった「無根の信」をどう読んだか。その真意は分からない。それを想像している自分がいるだけだ。そして、こう思う。「無根の信」とは、まったく予期せずに、自分を襲った出来事のことなのだ、と。
 信とは、襲われることだ。そして襲われてしまったら、もう以前の自分には戻れなくなるような事件である。いままで自分だと思っていた、その「自分」が襲われ奪い取られてしまう。奪い取られて空洞になり空っぽになったところを、そのまま阿弥陀さんが占領する。つまり、「自分」と「阿弥陀さん」との立場を代えられてしまう。「自分」が客になり、「阿弥陀さん」が主人になる。
 だから、「自分」は「阿弥陀さん」の後を着いていくだけだ。もともと、「阿弥陀さん」から始まっていたのだから、そんなことは、当たり前のことなのだ。
 人間が感じる「時間」、「空間」のすべてが、「客観的」なものではない。自分がここに存在していなければ、それもあり得るのかも知れないが、ひとたび「自分」が立ち会ってしまったら、すべては「意味」に転換される。「時間という意味」、「空間という意味」に。「不思議の国のアリス」の中を流れる「時間」と、「現実の時間」とは、そう違ったものでもない。どちらも、奇想天外という点では同質だ。「物語」には最初と最後がある。私の誕生から始まる「物語」も同じだ。人類という視点まで拡大してみれば、人類の最初と最後も「物語」抜きには語れない。
 普通は、自分の「物語」だけで手一杯で、イエスのように「人類の最後」などは視野にない。浄土教も、仏教という教えの終末は考えたが、人類の最後は視野にない。親鸞は、どうだったかは分からない。ただ終末に仏教が衰退していくほど、阿弥陀さんの悲愛が強まるとは感じていたようだ。親鸞は「救い」の可能性が皆無のところ以外に、「救い」はないと見ていた。まあ「救い」ということ以外に関心がないのだ。
 先月、ミャンマーに於ける仏教の状況をお聞きした。ミャンマーでは、葬式の儀式をしないと言われていた。ひとが亡くなると、土葬か火葬にされて墓もないそうだ。仏教国と言われるのに、葬式の儀式がないとは驚いた。そこにはミャンマー人の「常識」となっている死生観が影響している。彼らは、いわゆる「六道輪廻」を「現実」のこととして生きているそうだ。我々は人間として生まれたが、死んで、次の生では畜生(人間以外の生き物)に生まれるかも知れないし、地獄や修羅の世界に生れるかも知れないと思って暮らしている。だから、たとえ人間として死んだとしても、「自動的に」次に生まれ変わる世界へ行くだけだから、儀式など必要ないと考えているのだ。まあ、生前の行いによって多少の優遇はあっても、六道輪廻を解脱して仏に成れるなどとは露ほども思っていないそうだ。
 日本人で六道輪廻を「現実」のものとして受け入れているひとは、ほとんどいないのではないか。まあ、葬式をするのも別に次に生まれる世界で、仏にさせてもらうためにしているわけでもないだろう。ただ習俗、習慣としてみんながそうしているから、自分もするといった程度のことだろう。まあ、葬式文化の底辺を支えているのは、中国で儒教などに脚色された仏教の影響なのだが。
 しかし、日本人の「常識」からすると、ミャンマー人の「常識」は奇異に感じるのではないか。死後の生を「現実」のものとして受け取る感覚は、日本人にはないからだ。まあ多くの日本人は、「死」はいのちの終わりであって、そこから先の生などには思いを馳せない。死ねば死にきりで、次の生などを夢見る余裕もないのだろう。
 柳田邦男さんは「死後生」という言葉を作って、ひとは「死」によって消滅するのではないと主張した。「人は死によって肉体は失くなっても、その人の生きた証である生き方や行為や言葉や周囲に寄せた愛や思いは、家族や親密な関係のあった人々の心のなかで消えることなく生き続ける」(『「死後生」を生きる』)と言っている。確かに、「死後生」などと言わなければならないほどに、身内の死に衝撃を受けたのだろう。柳田さんの次男が自死されてから、ずいぶんご自分を責められたらしい。
 まあ、先立たれた人間にとっては、故人をどのように受け止めるかが大問題だ。自死ともなれば、身内の罪責感は想像を絶する。だから、六道輪廻とか、「死後生」などと言わざるを得ないのだろう。故人は「死」という線引きで「生」を抹消したわけではなく、まだ「生」が続いていると思いたいのだろう。その罪責感の落ち着く場所は、やはり、「善いことも悪いことも、すべて阿弥陀さんのせい」だ。罪責感とは、『歎異抄』的に言えば、「善人」の苦悩なのだ。もっとああしておけば、何とかなったのではないかという「自力」のこころの呻きである。
 私から言わせれば、生者がどれだけ故人を思おうと、それは生者の観念の延長でしかない。煎じ詰めれば、「貪欲」の受け止めた限りの故人でしかない。そんなことを言えば、血も涙も無いようだが、これは〈真実〉というものに照らしてみたときのありのままだ。人情に真を奥のではなく、〈真実〉の側に真を見るのだ。人情が人情として見えないと、人情に絡め取られ、足下を掬われてしまう。だが、〈真実〉という鋭利な刃物で、人情という贅肉を削ぎ落とせば、人情も調理しやすいものになる。人情は、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」(『歎異抄』第四条)という心情だ。これは人間である以上、必ず備わっている感情だ。ただ、これは「貪欲」から生まれた感情なのだ。つまり、自我愛から派生した感情である。自我愛だからダメだと言っているわけではない。ただ〈真実〉に照らせば、そういう構造で動いていると言うだけのことだ。〈真実〉によって心理構造が解明されてしまえば、その心理に騙されなくなる。そして、唯識が感情分析した「慈・悲・喜・捨」言えば、「捨」が成り立つようだ。「喜怒哀楽」は感情だが、「捨」とは非感情だ。この非感情を言い当てた言葉がないかと思っていたら、『歎異抄』(第十六条)の、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」が浮かんで来た。この「ただほれぼれと」が非感情の表現に近いのではないか。近いと言ったのは、ピタッと一つではないという感覚だ。やはり、ここには何事かの感情が動いているように感じるからだ。それで、ネットで「ほれぼれ」を調べてみたら、「すっかり心を奪われてうっとりするさま。放心したさま。ぼんやり」などとあった。
 連れ合いが「不在」になってから二ヶ月ほど経ったが、もう三十年も前に「不在」になったような感覚なのだ。遠い昔のお話のようだ。まさに「ぼんやり」しているのだ。つまり、彼女の存在とは、いったい何であったのか、その本質は分からないということだ。この「分からない」が正解なのだ。人間は集団で暮らす生き物であるかぎり、身内が生まれる。しかし、身内が「不在」になってみると、やはり、身内の存在は「分からない」のだ。また「分かって」はいけないのだ。「分からない」が〈真実〉だとして、「分かろうとする手」を放棄しなければならない。それが身内を尊ぶことなのだろう。
 そして、「ただほれぼれと」、阿弥陀さんの後を着いていけばよいのだろう。行き先は阿弥陀さんだけがご存じなのだから。