ああそうだった。あらゆることが、「私」から出発してはいなかった。太陽が昇るのも、空気が肺に入ってくるのも、私が人間という生き物として、いま、ここにあることも。さらに、このような存在として、いまここにあると思っているということすらも。
改めて、そう感じた。
「私」などという「実体」はどこにもないのに、「私」という「思い」はある。この構造は、唯識で言うところの、「阿頼耶識と末那識」の構造を表しているのではないか。この二つは、深層意識と呼ばれていて、私が意識することのできないものだと書かれている。意識できないものなのだから、本当は、意識にとっては不可知でしかない。不可知なものを意識が扱おうとしているのだから、これはまったくナンセンスなことなのだ。
心理学でも、「深層心理」とか「無意識」いうことを言うけれど、これも意識では確かめることのできない領域のことを語っているのだから、本質的にはナンセンスなことを言っているのだ。
でも、そういう言葉で説明しなければ、到底、意識では納得できない現象を説明しきれないので、苦肉の策として、そういう言葉を使うのだ。たとえば、「夢を見る」という現象など、到底、意識では説明できない。「夢」を見ているときに、これが夢だと知っていることもある。しかし、意識のご希望通りであり、意識のお好みの夢を見ることなどはできない。「夢」のシナリオを意識が作れるのであれば、そんなことはないのに。確かに、「夢」の素材は、意識の知っている世界のものを使っている。しかし、現実の素材を使っていながら、その素材とどこか違っているものである。意識の知っていた人物を使っているのに、現実のそのひととはどこかが違っているのだ。
このような現象を、到底、意識は説明しきれない。それで、「無意識」などという矛盾した言葉を使って説明するのだ。唯識の「阿頼耶識と末那識」も同じような構造だろう。これは親鸞が使った「竊推」という方法と通底する。親鸞は、阿弥陀さんがなぜ我々のために本願(三心)を発したのかと自問して、こう答えている。
「答う。仏意惻り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに」(『教行信証』信巻)と。つまり、阿弥陀さんの本心など我々に分かるはずがないと。ただ、分かるはずがないという原点を確保しながら、それを結論とはしていない。その原点を失うことなく、そこから、「竊かにこの心を推する」、つまり、「竊推(せっすい)」していく。本質的には分からないのであれば、そんなことについてアレコレ語っても、所詮、無意味ではないのか。分からないのにも関わらず、なぜあえて「竊推」できるのだろうか、こういう問いが生まれてくる。
でも、人間は言葉の生き物だから、この「分からない」という言葉の意味をも分かってしまうものだ。「分からないなら竊推したって無意味じゃないか。そんな無意味なことはやめておいたほうがいいじゃないか。」という思いも起こる。この「分からない」は、「分かる」という意味世界をベースにして考えられた「分からない」だ。「分かりたい」のに「分からない」という苛立ちから起こってきた「分からない」だ。
ところが、親鸞の言う、「分からない」は、「分からない」という意味世界に包まれた「分からない」である。【分かる】に包まれた中での「分からない」か、【分からない】に包まれた「分からない」か。「分からない」にも二種類ある。
これは直感的なことだが、親鸞が「第20願」の往生を「難思往生」、「第18願」の往生を「難思議往生」と表現したのも、その違いを述べているように思える。「難思」は、【分かる】に包まれた中にある「分からない」だが、「難思議」は、【分からない】に包まれた中にある「分からない」だ。どちらに自分の立場があるかで、見え方は百八十度違ってくる。
人間の世界は、【分かる】をベースにして成り立っている。人間は「分かりたい生き物」であり、【分かる】生き物である。この「分かりたい」は、やはり「貪欲」なのだ。貪欲は、「分かりたい」で充満しているから、見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、食べるもの、触れるもの、あらゆるものを「分かろう」とする。だから「分からない」は許せないのだ。「分からない」ことなど、貪欲にあっては、許すことのできない汚点だ。
しかし、親鸞はその貪欲の手をするっと交わしている。そして「分からない」にも関わらず、その「分からない」ところを深く「竊推」すると言う。逆転させて考えてみれば、「分からない」から「竊推」できるのだろう。もし「分かって」しまったならば、もうこれ以上の「竊推」は不必要になってしまうから。だからと言って、「分からない」ことを「竊推」したとしても、少しも「分かってしまった」ということにはならない。少しずつでも「分かって」いくのかと思いきや、そうではない。相変わらず「分からない」のだ。
そもそも、親鸞の立ち向かっている「分からない」は、いつでも、どこでも、誰においても「わからない」ものである。ここに立ち向かっていると、「分からない」の壁が屹立してくる。まあ、「意識の限界」というか、「貪欲の対象化」とでも言える現象だ。
この壁が立ち現れることで、いままで【分かる】の中に保存されていた「分からない」が、【分からない】の中に保存し直される。このベースの転換が「転」である。つまり、【分からない】が〈真実〉であり、【分かる】が幻想だと転ぜられる。この壁があるからこそ、「竊推」とう無限の表現が生まれてくるのだ。【分かる】ことには、限界があるが、【分からない】ことは無限の表現を生む。どこまで表現し尽くしたとしても、決して、寸分も【分かる】世界に引きずり込むことができないからだ。
まあこれは卑近なことだが、私のやっている「〈真実〉のデッサン」という手法と同じだ。デッサンは、決して木炭でひかりを描くことができない。ひかりの部分は、あえて木炭を削り落とすことで表現する。つまり、ひかりをより濃く表現するためには、黒炭をより黒々と描かなければならない。このひかりを描けないということが、【分からない】に相当する。永遠にひかりを描くことができない。だから、永遠にひかりを「竊推」していくことができる。
それでは真っ黒な黒炭の影を通して、どこにひかりが、つまり〈真実〉が立ち現れるのかと言えば、それはその表現を見た人間のこころに於いてである。だから、ひかりは描くことができないのだ。影しか描くことができない。
話が思っても見ない方向に進んでしまった。私が言いたかったことは、「阿頼耶識と末那識」の関係だ。唯識では、これらが無意識のことであり、表層の意識では明確に掴むことができないこととして述べられている。
末那識の末那とは、「思量」すること、つまり「思う」という意味だ。ただ、四つの煩悩を伴って、つねにはたらいている「思い」のことだ。四つとは、「我癡、我見、我慢、我愛」である。この四つを倫理的な判断で受け止めてはならない。人間の思いはエゴイズム以外にはなく、どうしょうもなく救いのないものだなどと、倫理的に悲観して受け取ってはダメだ。ただ人間の「思い」というものの性格をありのままに見たものとして受け取らねばならない。
意識は、この末那識を拠り所にしてはたらいている。だから、「純粋な意識」などはない。それではこの末那識は何を拠り所にしているのかと言えば、それは阿頼耶識であるという。阿頼耶識というものも意味が深い。まあ簡単に言えば、「身体と環境」のすべて、ということになる。有名な働きが、「攝して自體と為して安危を同じくするが故に」(『成唯識論』)である。阿頼耶識は、いついかなるときにも身体と一心同体であり、安全なときも危機的なときも、片時も離れることなく、あなたを支えているという意味だ。
ところが、面白いことに、末那識は、この阿頼耶識を拠り所としてはたらいているという。まあ無意識から表層へと動き出すということだろう。さらに分かりにくいのは、阿頼耶識も末那識を拠り所としてはたらいているというのだ。つまり、交互に互いのはたらきを支えているというのだ。無意識と表層とが、たがいに支え合って動いているという状態だろうか。
これをどう考えたらよいのだろうか。私は、阿頼耶識を、一応「本当の自己」と言ってみたい。この「本当の自己」から末那識が起こり、さらにそこから意識(煩悩)は湧き出ずると。湧き出してきた人類の最末端に、「特殊としての自己」がある。しかし、それは「本当の自己」、つまり阿頼耶識から生まれてきたものだから、「普遍的自己」でもある。
「特殊」と「普遍」の同居しているものが私自身である。
この度、私は46年間連れ添った伴侶を失った。それは愛別離苦という苦を私にもたらした。それは末那識にとっては最大の苦しみだ。「我癡、我見、我慢、我愛」という煩悩の全否定だからだ。しかし、それが末那識がはたらくときの健康なはたらき方だと思えたことで、その苦しみの構造が解体された。それを「悲しみは貪欲の悲鳴なり」という言葉でいただいだ。「悲しみ」を生み出している正体は末那識である。まあ、正確には煩悩なんだが、その煩悩を操っているのが末那識だから同罪だ。煩悩も煩悩だけで動くわけではない。煩悩を煩悩として操っているものがあり、それこそが末那識だ。これは無意識として分類されるほど深いものであり、すべてを意識化することはできないということだ。
だから、「悲しみ」とは、末那識が催した結果である。もし鼻がなく、嗅覚という世界がなければ、異臭(臭み)という不快な世界はないに等しい。もし、眼がなく、視覚という世界がなければ、醜さという世界はないに等しい。それと同じように、もし末那識がなければ、「悲しみ」という世界はないに等しい。私はいままで、「悲しみ」は私自身が引き起こしているものであって、私のどの部分が悲しんでいるのかなどという考えには到らなかった。つまり、私全体が悲しんでいるのだと思い込んでいた。しかし、そうではなかった。私と末那識を峻別できるようになったからだ。それだからと言って、悲しみの感情がまったく起こらないということでもない。ただ、たとえ起こってきたとしても、悲しみによって足下が掬われ、立っていられないほどではないということだ。悲しみは悲しみの感情として、そのままそっとしておけるようになったというだけのことだ。私全体が悲しんでいるわけではなく、末那識が悲しみを感じているだけのことだと見られるようになった。
つまり、「本当の自己」は阿頼耶識だから、それは悲しみの感情で左右されるものではないのだ。唯識では「感情」を「受」と言い、「慈受・悲受・喜受・捨受」の四つに分けている。まあ「喜怒哀楽」のことだ。しかし、面白いのは、「捨受」である。「捨」とは、感情が静止した非感情の状態を意味している。阿頼耶識は、自分にとって好都合の状況と不都合の状況を区別できない。それですべての状況に対して、それをそのままに、非感情に受け入れているという意味で、「捨受相応」と言われる。
「本当の自己」とは、非感情であり、身体とつねに同体になっているものだ。それが阿頼耶識の自己である。まだまだ阿頼耶識には面白いところがある。この全宇宙そのものも阿頼耶識だと見ている。つまり、我々の身体(有根身)ばかりではなく、環境(処)もすべてが阿頼耶識なのだという。まあここまで行くと奇想天外で、人間の想像の範囲を超えてしまうのだが、まあこれは〈真実〉なので仕方がない。
やはり帰るべきところは、〈一人一世界〉である。この世には私一人しか生きておらず、またこの世界は私一人だけの世界であるという感覚だ。伴侶との死別をご覧になったかたが、「さぞやお寂しいでしょうね。お辛いでしょうね」と慰めの声を掛けて下さる。それはお優しいお心遣いなので丁重にお受けすることにしている。しかし、本心は、どれだけ慰めの言葉をいただいても、私はあなたの見ているところにはいないのだけれども、と思っている。つまり、そのかたは、私の死別体験を自分に引き当ててお考えになっているということだ。自分であれば、伴侶との別れはとても辛いものであって立ち直れないほどのものだとお思いになっている。その思いを私に投影して、「さぞやお寂しいでしょう」と慰めの言葉を掛ける。しかし、あなたが寂しいと感じる世界と、私の世界とはリンクしていないのだ。だって、〈一人一世界〉だから。
そう思うと、自分が他人をどう思い、世界をどう思い、自己自身をどう思っているかということだけの世界を人間は生きているのだ。やはり、〈一人一世界〉だけをひとは生きているのだろう。
私にとっての伴侶は、私の〈一人一世界〉の中にいて、この世界から「不在」となったひとだ。末那識はそれを悲しみに変えてしまうが、そこに彼女はいるのだろうか。やはり「不在」である。この世の中でもそうだろう。いまご家族が会社に行っていて家には「不在」という状況がある。この「不在」と、この世からの「不在」は時間的な長さが違う。この世の「不在」は、また会うことができると思い込んでいる「不在」だが、この世からの「不在」は二度と会うことのできない「不在」だ。でも、それは時間の長短であって、「不在」という意味では同じだ。この世からの「不在」は、この世の「不在」を、ちょっとだけ延長しただけのことではないのか。
たとえこの世の「不在」であっても、それが二度と会えない「不在」になる可能性は、人間ならば誰でも経験することである。そうなると、いま目の前に居ないということが、いったいどういうことなのか、これがなかなか厄介な問題として浮かび上がってくる。
確かに、いま、ここに、私があるという「思い」(末那識)はある。この「思い」はどこからやってくるのかと言えば、無意識としての「阿頼耶識」からである。こうなると、私が思うということは、「阿頼耶識」のはたらきであり、「私」という実体が思っていることではない。「阿頼耶識」によって、「私」として思わされているというのが本当のところなのだろう。「思わされている私がある」は正しいが、「私が思っている」は間違いなのだ。宇宙は、間違いなく、「私」から始まっているものではなかったから。