二〇二五年一〇月一五日に「秋葉原UDXギャラリーネクスト」で開催された、第1回秋葉原親鸞講座で出た「質問&感想」をここに転載する。
1■「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」とはどういうことでしょうか?聞きかじって、気になっている言葉なのですが。
武田→ この言葉は、親鸞の主著である『顕浄土真実教行証紋類』(略称:『教行信証』)の「行巻」末に書かれている「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)(略称:「正信偈(しょうしんげ)」の中にある言葉です。親鸞は、これを「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」と訓読しています。この「正信偈」は、漢詩の「七言絶句」形式で制作されています。ですから、前の句と対になっています。この句の前には、「能発一念喜愛心」(よく一念喜愛の心を発すれば、)があり、これに続いて、「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)と記されています。
これを私なりに現代語に訳してみたいと思います。「思いがけず、阿弥陀如来の命令である『他力の信心』に全身が蹂躙されたとき、私を思い煩わす煩悩を滅却する必要のないことに目覚め、『永遠なる時間』を賜るのである」です。これはかなりの意訳です。
言えば、親鸞以前の仏教は、「煩悩」を断ずることで涅槃を得ようとしてきました。あくまで、仏教の目的は「真理に目覚めること」です。しかし、なかなか目覚めることができないのです。それは目覚めることを邪魔しているものがあるからです。それこそが「煩悩」だと見つけたのです。それで、その煩悩を滅却し、断絶すれば、おのずと「真理」が現れるはずだと考えました。
当然、親鸞も比叡山(天台宗・延暦寺)で学び始めた頃は、「断煩悩」の仏教から入門したはずです。煩悩を断ずるためにはさまざまなエクササイズ、つまり「修行」をすることになります。しかし、修行を続けても、これで覚ったという状態にまで達することができません。それで一生涯を修行に費やすことになります。こういうスタイルの仏教を、「~する仏教」(doing)と私は呼んでいます。
親鸞の分類で言えば、「第19願」であり、「修諸功徳」というスタイルです。「諸々の修行をすることで得られる功徳」という意味です。しかし、親鸞は、これは「自力」であり、達成することができないことを発見しました。何事かの行為を「~する」という関心では、「する」ことと「目的」とが、必ず分裂してしまうからです。「目的」ができてしまえば、必ず「目的」を達成する行為とが別のことになります。親鸞は、この矛盾に気づき、「~する」仏教から解脱しました。
いままで、「~する」というこころは純粋な「菩提心」だと考えられてきましたが、親鸞は、その「菩提心」こそが「煩悩」だと気づいてしまったのです。それに気づけば、もはや、「する」こと自体が停止します。一歩も動くことができなくなります。そこから開かれたものが、「ある」(being)仏教です。
しかし、「ある」に気づいて、「する」が死ぬと、そこから、今度は、「されている」世界が噴出してきたのです。それが「如来回向(にょらいえこう)」という言葉となって生まれてきました。
それを図式的に言えば、「断煩悩(第19願)」→「不断煩悩(第20願)」→「煩悩拝跪(第18願)」です。親鸞以前の仏教が、「第19願」だとすれば、「第20願」が「不断煩悩」です。これは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことができると、消極的な表現になっています。親鸞は、消極的な表現で表したのですが、私は、そこからもう一歩積極的に表現し直して、「煩悩拝跪」と言います。つまり、「煩悩」といえども、自分が「起こす」ものではありません。「する」仏教は、「自分が起こしている」と考えますから、「私が断ずることもできる」と発想します。しかし、煩悩は自分の意志で「起こす」ことのできるものではなく、「起こる」ものです。つまり、煩悩も「他力」で「起こる」のです。自分の思いを超えて「起こる」煩悩を、これこそが「他力」の現象だと受け止めれば、「煩悩」が仏法を教えてくれる教材に変化します。そこで、「起ってきた煩悩」を教材として拝跪するという世界が開かれます。これが「煩悩拝跪」です。「第18願」の世界とは、この世界です。
ですから、親鸞は「不断煩悩」と消極的な表現をしたのですが、それを私はもう一歩進めて「煩悩拝跪」と積極的表現で語っています。これが親鸞が「不断煩悩」と記したことの深い意味だと受け止めております。
「正信偈」には、他に「煩悩」が二回使われています。一つは、「遊煩悩林現神通 入生死園示応化(煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す)と、「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう)→阿弥陀さんとは「背中」で対面する。
いずれも、「煩悩」が「煩悩」だと見えれば、「煩悩」のはたらきが対象化され、「煩悩」と柔らかく付き合うことができるということを含意しています。それを「遊」という文字が示しています。
2■「誤解無くして仏法に近づけない」、「真実は描けないが心で感じるもの」という言
葉が響きました。また聴聞しつつ、深く考えていきたいと思います。
武田→ 私は、あえて「誤解」と言いましたが、正確に言えば、自分なりの「思い込み」、自分なりの「固定観念」のことです。『歎異抄』の言葉で言えば、「自見(じけん)の覚悟(かくご)」(序)です。「まったく自見の覚悟を以て、他力の宗旨(しゅうし)を乱ることなかれ」とあります。
しかし、人間が仏法に近づいていくときには、必ず「自分なりの思い込み」が関わっています。何か功徳があるから仏教に近づくのです。禅の『碧巌録(へきがんろく)』には、梁(りょう)の武帝と達磨大師(だるまたいし)との問答が出ています。梁の武帝は、曇鸞大師をも尊び、曇鸞を「菩薩」と礼拝していたかたです。この武帝は仏教を保護したひとで、そのことの功徳は何かと、達磨大師に問います。そのとき達磨大師は、即座に「無功徳」と答えています。武帝は、仏教を興隆するためにお寺を建てたり、僧侶を優遇したりして功績がありました。これは功徳のあることだろうと、武帝は思っていたのです。こういうものが、「固定観念」です。「こうすれば、ああいう功徳が手に入るだろう」という思い込みです。しかし、またこういう「固定観念」がなければ、なかなか仏教に近づくこともないのでしょう。しかし、それが煩悩であることを見破った達磨大師は、「無功徳」と一刀両断に切って捨てたのです。達磨大師は、どういう気持ちで、「無功徳」と言ったのかは分かりませんが、そこに我々が、この「無功徳」という表現を、どう受け取るかが問われます。私は、この応答は、仏法の「智慧」の側面を表現していると思います。「真なるものは肯定し、偽なるものは否定する」という禅独特の厳しさの表現でもあります。ただ仏法には「慈悲」の面もあるのです。「無功徳」という言葉が、そのまま「慈悲」の言葉と受け取る側面です。「無功徳」とは、人間の功績を認めないということですから、逆に人間の能力とはまったく異次元にあることを示しています。もし人間の能力や努力に応じた功徳であれば、相対的な功徳に成り下がってしまいます。つまり、それは「人間が感じる程度の功徳」です。「無功徳」とは、人間の相対的な功徳を一刀両断に、無と否定することで、人間には触れ得ない「超越的な功徳」を表現し、与えたのです。ですから、やはり「誤解なくして正解なし」です。
3■先生のお話を、皆がすごく興味深く聞かれている!そういう人が集まっていてスゴイ
と感じました。
武田→ 人間は、自分が思っている程度の浅いものではありません。自分の思いよりももっとずっと深いものです。意識も深層意識も含めたものが自己ですから。自己の成り立ちに目を向ければ、自己存在は地球の誕生と同じくらいの深さと重さを持っています。その深さと重さが、共鳴したとき、その場所に何かが起ってくるのです。やはり、「この世を生きている」と、〈一人称〉で言うことのできる存在を回復したいのでしょう。「もともと、人間は一人称で生きているじゃないか」と言ってしまうと、間違います。私が、「一切衆生を代表する一人」であると驚嘆する〈一人称〉です。これを回復することを誰もが願っているのです。別に仏さんになど成らなくてもよいのです。自己が〈一人称の自己〉を回復すればよいのです。
4 ■「阿弥陀さんといっしょ」の意味は結局、絶対他力ということでよろしいでしょうか
?
武田→ その通りです。何を思おうと、何をしようと、すべては自分から始まっていないという直観が「他力」という言葉の重みです。自分がまず在って、向こうに「他力」があるわけではありません。自分も向こうも、すべて丸ごとが「他力」です。すべては「他力」ですね?と聞かれれば、「その通り」としか答えることができません。「阿弥陀さん」が「自分」に取り憑いていると言ってもよいのですが、それでは、まだ「自分」と「阿弥陀さん」が相対しています。もっと根源的に言えば、「阿弥陀さん」そのものが「自分」なのです。「自分」とは「阿弥陀さん」の自己表現なのです。しかし、これはとても危険な表現でもあります。危険水域の表現ですが、危険を冒さなければ、〈真実〉は表現できないのです。
5■ 講義が始まったとき、とても久しぶりの秋葉原に感じましたが、終了するときにはず
っと継続してきたように感じました。
武田→ 「秋葉原親鸞講座」は、我々の深層でずっとつながっているのです。だから、「ずっと継続してきたように感じ」られるのでしょう。表層では、何ヶ月おきにある、となるのですが、深層ではつながっています。仏法の時間とは、地下水脈の如しです。この地下水脈があるから、二千五百年前のお釈迦さんとも、八百年前の親鸞とも対話することができるのです。
6■ 日常生活の中での実践、実験を身体感覚としてたしかめていきます。
武術において「力の絶対否定」「放鬆(ファンソン)」という自然との平衡状態(自我意識の筋力を使わない)のとき、人間本来の力が 自然に出る…これまでと真逆の感覚ということと今回のお話は同じと感じました。
「〈真実〉のフォルム」という言葉はよく言い表していると思いました。定まった形はなく、真理・道理にかなっていると自らそうなっている「現在…being」という意味で人間の数、各人の体験ごとに「今」あらわれているものなのでしょう。「生死」という表現も「いち(生)」「に(死)」というような段階や状態ではなく「同体」「一つ」「動態」という感じが伝わってきます。
武田→ そうですね。〈真・宗〉は体験学習ですから、日常こそが聴聞の現場です。武術とも共鳴しているのですね。やはり、「〈真実〉のフォルム」は、いろいろなところに顔を覗かせているのでしょう。それをキャッチする眼がありさえすればよいのです。その眼を開けば、その中に映る世界は、すべて〈真・宗〉を暗示する世界に変化します。
7■ 今日はありません。ありがとうございました。
武田→ こちらこそ有り難うございました。人生という短い時間の一部分を、つまり、いのちの一部分を、この講座に提供して下さり、まさにいのち掛けのご参加、有り難うございました。私の喜びなどは大したことはありません。一番喜んでおられるのは、阿弥陀さんご本人だと思います。