あちこちで、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」ということをお話ししている。これは、伴侶を失ったことから生まれた言葉だ。世間の言葉で言えば、「死別体験」だが、これはなかなか大変な厳しい体験である。厳しいというのは、「二人称の死」ほど悲嘆の感情が、人間を激しく襲うことはないからだ。人間が、「人の間」と書くように、一人では生きていけないものであり、必ず「関係存在」として生存している。「関係存在」と言うと実体的な存在をイメージしてしまうが、本当は、「存在とは関係以外にはない」という意味なのだ。この「二人称」の関係が解消してしまうのだから、「私」が解体するほどのことなのだ。
ところが、この関係が解消しない人間関係というものもない。人間は必ず「出会い」から出発するのだが、「出会い」ということが、必然的に「出会いの解消」を成り立たせてしまう。仏教が発見した、「諸行無常」である。必ず、「出会い」が別れの原因であり、「誕生」が「死」の根本原因である。これは真理である。
ということは、この度の「死別体験」は、私に起った特殊な体験であると同時に、人類普遍の体験でもあるのだ。人間、誰しもが経験する体験を、私が人類の代表として体験させられているということだ。だから、この私個人の体験を綿密に掘り下げて行けば、必ず、そこに人類普遍にまで降りていく扉があるに違いない。
そこで私は、この悲嘆の体験がどこからやってくるのか、究極的に、何が悲しんでいるのかと問うていった。その突き詰めの結果、明らかになったものが、「貪欲」である。この「貪欲」が「悲しみ」という感情を引き起こしている根本原因だと見抜いた。この言葉は現代語でも使われている。その場合「どんよく」と発音する。「あいつは貪欲なやつだ」と言えば、「彼は、ものすごく欲の深い人間だ」という意味になる。しかし、これはもともとは仏教語なのだ。ただし、仏教語で読む場合には、「とんよく」と濁らずに発音する。
『仏教語大辞典』には、こうある。「自己の欲するものをむさぼり求めること。自己の情にかなうものを受け入れて、あくことを知らない心。度を超えて欲の深いこと。非常に欲の深いこと。名声や利益をむさぼること。欲ばる心。むさぼりの心。むさぼり。いわゆる渇愛のことで、苦の根本原因。(以下略)」
この「貪欲」を「どんよく」と読めば、ある種の人間を形容する言葉になるが、「とんよく」と読めば、誰のこころにも存在するこころの傾向性という意味になる。つまり「貪欲」の傾向の強いひともあれば、弱いひともあるのだが、基本的にこの傾向性のないひとは存在しないということだ。そしてこれを「苦の根本原因」と仏教は見抜いた。
そこで仏教のある段階では、この「苦の根本原因」である「貪欲」を解体、解消することで苦を超えようとした。しかし、結局これは「禁欲」までは行けても、「断欲」までには至れなかったという結果を生んだ。
仏教には、「唯識」という仏教の存在論があるのだが、これはとても面白い。いきなり「貪欲」を解体するという発想の前に、まず「貪欲」がいかなる構造ではたらいているのか、このメカニズムを徹底的に研究しようとした。おそらく、私もこの傾向性の流れの中にあるのだと思うのだが、それで到り着いた結論が、「悲しみは確かにあるのだが、それを引き起こしているものが貪欲である」という認識に到った。私が必ず使う例えで説明すれば、こうなる。「貪欲」とは、まず自分の欲が欲する対象(境)を見つける。欲は、これさえ手に入れば満たされるだろうという思い込みを起こす。人間は「幸福」という、馬の鼻先にぶら下げられたニンジンのような漠然とした目標を持つ。でも、まだ誰もそんなものを手に入れたひとはいない。それであっても、それさえあれば「幸福」だと思い込まされている。それが「貪欲」の映し出す幻想である。
孫がオモチャを欲するのも同じ原理だ。オモチャを目にしなければ、欲は起らない。スーパーマーケットなどの会計付近に置いてある「ガチャ」という機械(対象)が孫の目に止まる。ガチャとはコインを入れて、ノブを回すとカプセルトイなどが出てくる機械のことだ。これが目に入った途端、それを手に入れたいという欲が刺激される。また店側も、そういう刺激を与えるために、そこにガチャを置いている。まあこれは資本主義の原理だから、老いも若きも、この資本の原理から逃れることはできない。需要(欲)がなければ、生産(文明)は起らない。
親は、そんなオモチャは気休めで、一時的に欲を満たすためだけのものだと分かっているので、孫の欲を押さえようとする。しかし、孫は諦め切れず、駄々をこねて泣き出す。運良く、親がお金を出してくれ、それでガチャのオモチャを手に入れたとしよう。オモチャを手に入れた孫は大喜びだ。それで一件落着となる。ただ、手に入れたはずのオモチャは、数日経つと欲を刺激しなくなり、見捨てられる。そして、また新たな欲の刺激を求めて彷徨う。竹田青嗣さんが言われる、「エロス逓減の法則」だ。
これは孫という特殊存在の上に現れた、人類普遍の法則でもある。資本主義の原理がそれである。貪欲がなければ、資本主義な成り立たない。19世紀から20世紀は、より安い労働力を求めて、列強国は地球上を喰い漁った。そしてより安い労働力で、より高価な商品を産出した。
孫がオモチャを欲しがるのと、人間が愛する対象を欲しがるのは同じ構造である。欲が対象を選別するのは、一種の所有欲である。それさえ手に入れば、自分が満足するように見えてしまう対象を捏造する。恋愛感情も、同じ法則に則っている。愛する対象が手に入れば、それで満足する。しかし、一度、手に入れてしまうと、欲は満たされ、刺激の対象ではなくなる。それは誰が悪いというものではなく、本質的に貪欲の持っている傾向性だ。貪欲とは、つねに新しい刺激を求めずにはいられない傾向性を持っている。
夫婦が単なる性的関係であれば、新婚当初のエロスは年数を経ることで、必ず「逓減」していく。だから「結婚とは、最大の誤解であり、離婚とは最大の理解である」という言葉もある。いわば、貪欲の幻想が破れるところから、初めて、性を超えた、「人間と人間」という新たな関係が開かれる。この延長線上にある言葉が、「この世は〈私一人〉を教育する阿弥陀さんのの学校なり」である。なぜ、人間は、夫婦や家族という人間関係を持つのかと言えば、それは、偶々のこのであり、誰もその答えを持ってはいない。持ってはいないのだが、私はそれをあえて、「阿弥陀さんが、〈私一人〉を対象として、の〈真実〉教育するため」なのだと受取っている。
人間は、必ず大なり小なり、「共同幻想」(吉本隆明用語)を生きている。だから、私の周りにはたくさんの人々が生きていると思い込んでいる。伴侶や家族は、間違いなく人間として「生きている」のだ。しかし、「生きている」と、「生」を一人称で体験しているものは、この世に私以外にはいない。『仏説無量寿経』には、「独生独死 独去独來(独り生じ独り死し独り去り独り來りて)」であり、「身自當之、無有代者」(身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」と「の〈真実〉」を記している。
私は、当初、この言葉に出会ったとき、何という暗い言葉だろうと思ったものだ。やはり、仏教は暗い教えだと感じた。それは「の〈真実〉」を述べたものであったとしても、見たくない〈真実〉だと感じた。
しかし、いまはこの言葉に対する印象が変わっている。これこそ「の〈真実〉」であり、つねに私が帰るべき場所だと思っている。なぜならば、これを「暗い」と感じさせていたものの正体が「貪欲」だと発見できたからだ。「貪欲」とは、自分だけを愛し執着する深層意識である。唯識が発見した言葉で言えば、「末那識」である。何回も引用してきた安田理深先生の言葉で言えば、「夫は夫自身を愛するために妻を愛し、妻は妻自身を愛するために夫を愛す」である。つまり、人間の「愛」というものはエゴイズム以外にはないという認識だ。これは善いことでも悪いことでもない。人間の「愛」が「の〈真実〉」から見破られた言葉だ。
つまり、人間に於ける「愛」の対象とは、「貪欲」の餌食である。この「貪欲」の餌食を取り上げられるということが「二人称の死別体験」ということになる。ここまで書いてきて、さらにそこから私は新たな認識を得た。それは「貪欲」が悲しんでいるだけであって、私全体が悲しんでいるのではないという認識だ。私の一部分が悲しんでいるのであって、私そのものは、悲しみも喜びも感じていないと。私とは無色透明なものであり、空洞であり、空気のようなものだと感じた。
それこそ妄想かも知れないが、私は、これを唯識は、「阿頼耶識」と名づけたのではないかと思った。末那識のさらに深層に阿頼耶識があると発見したのは、このことではないかと。これこそが人間の深層にある「本当の自己」だと発見したのではなかろうか。
まあそういうふうにでも思わなければ、「死別体験」の残酷さは乗り越えられないか、無理矢理、そう思い込もうとしているのではないかと、疑ってもみた。まあ、そう疑ってみたのだが、そう疑いたければ疑っていればいいじゃないかという余裕も湧いてきた。究極は、「の〈真実〉」にまかせておけばいいじゃないか、という思いのほうが強くなった。 唯識は、人間の意識構造を、「八識」と分析した。表層の「五識(五官)、「六識(意識)」、それから深層の「末那識(自我識)」、「阿頼耶識(根本識)」と。まあ、これもある意味で仮説モデルだ。問題は、「阿頼耶識」だが、これのはたらきとして、『成唯識論』(護法)には、「攝為自體同安危故(攝して自體と為して安・危を同じくするが故に)」とある。
つまり、「阿頼耶識」は安心な状況のときも、危険な状況のときも、それを自分自身として黙って引き受けているという意味だ。この「安危」とは、「貪欲」が満足するときも、阻害されるときもという意味だ。「離別体験」とは、「貪欲」が阻害されるときだが、それをもすべて飲み込んで、「自分自身」として平然としている。「自分自身」という言葉を使うと、また何か実体的なモノを連想してしまうが、そうではない。
私の使う例えでいえば、「空洞」である。私自身の意識構造は、やはり、中心が「空洞」なのだ。ドーナッツの穴だ。この「空洞」を成り立たせているのは、周辺のあらゆるモノである。ドーナッツは周りの生地の部分がなければ、穴は成り立たない。しかし、穴は無いものである。無いものは有るものによって、穴として成り立たせられている。実に不思議な関係だ。
穴を支えている生地の部分は、私の目にすることのできるあらゆるモノの世界であり、喜怒哀楽という感情から、貪欲でできている。しかし、生地の部分が自分全体ではない。「本当の自分」という言葉も実体的なイメージを生むので使いたくないのだが、しかし、あえて使うとすれば、「本当の自分」は「空洞」である。「空洞」だから、そこにはあらゆるものが融通無碍に通過していく。喜びも悲しみも、思い出も、希望も不安も、あらゆるものが通過していく。
これを親鸞は「虚無之身、無極之体」と受取っていたのではないかと、密かに考えている。身も心も環境も、これらのすべてが私を成り立たせている。皮膚の内側だけが自己ではない。外側も自己であるような柔らかなイメージだ。
やはり、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」と、愛らしくそれを眺めている自分が、いま・ここにいる。