弥陀とイエスとアンパンマン

真宗大谷派東京教区の官報である「東京教法」第181号の「巻頭言」をここに転載する。

NHKの朝ドラ、「あんぱん」が9月に終了した。「あんぱん」は、漫画アンパンマンの作者・やなせたかしの人生を描いた作品だ。太平洋戦争に出征した彼は、敗戦を契機に、軍国主義が、一夜にしてアメリカが導入した民主主義へ翻身したことへの違和感を感じた。それで、「逆転しない正義とは何か」と問うていく。このテーマを突き詰め、とうとう、アンパンマンという作品を完成させた。当初、アンパンマンの主人公は、貧しいひとや苦しんでいるひとに、アンパンを配る「弱々しいおじさん」というモチーフで描かれていた。彼は、このヒーローは、強くても格好良くてもダメなのだと言っている。ところが、「アンパンを配るひと」という発想では、何かが足りないと感じていた。それが或る日、アンパンマンの顔をアンパンで描くことを思いつく。つまり、貧しいひとや苦しんでいるひとに、自分自身の顔を食べさせるという着想だ。これが、彼が問うた、「逆転しない正義」の答えだった。ところが、この、貧しいひとや苦しんでいるひとに自分自身を与えるという着想は、イエスの発想と似ている。イエスは「パンを取り祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これはわたしのからだである。』」(マタイ書26-26)と。これを知っていて、やなせたかしは「アンパンマン」を着想したのかどうかは分からない。
 ただ、これを見て、阿弥陀さんならどう言うだろうか。阿弥陀さんなら、「私の全身をお前に与えている」と言うだろう。つまり、お前の身体は阿弥陀さん自身であり、お前のものではないと。この身体は、自分が造ったものではない。身体をこの世に生み出した両親、さらにその両親を生み出した両親へと、いのちは無限に広がっていく。その原初を阿弥陀さんというのだから、やはり、この身体は阿弥陀さんの所有物なのだ。もし、「無私の愛」というものがあるとするならば、「究極的」にはこういう形になるだろう。「一身同体」以外に「愛」はないのだ。ただ、それを「愛」と感じるかどうかは、「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)にまかされている。